Slipping Trough My Finger(掌編小説)

「だから、親族だけだってば。式はできるだけこぢんまりやりたいのよ。自分の身の丈にあった……」

『あんたはまたそんな勝手なことを言って。自分たちだけでやりますので、そんな単純な話じゃないのよ。これからも夫婦ともどもお世話になりますっていうけじめでしょう』

「お母さんの時代の常識を押し付けないでよ。式を挙げるのは私なんだから、いちいち口を出さないで!」

 お互いにうんざりするようなやり取りは、もう何度目だろう。

 外にいればよかった。後悔しても遅い。家の中では歯止めが利かなくなる。乱暴な口調になりながら、なぜいい大人が口げんかで熱くなっているのだろう、とどこか冷めた目で眺める自分がいた。人の目もあれば、ヒートアップもしなかっただろうに。

 正直なところ、亜弥はここしばらくのところ妙な居心地の悪さを感じていた。

 新生活は快適だ。やるべきことは多いものの、夫と大きなけんかも不満もなく、お互いの価値観をすり合わせながら共同生活ができていると思う。

 だが、職場へ、友人へ、親族へ報告するたびに浴びせられる、過剰ともいえるほどの「おめでとう」の言葉に、不自然に胸がざわめくのだ。

 プロポーズの言葉、結婚の決め手、幸せな新生活のこと……そういった問いかけは、亜弥にはジャッジに聞こえる。幸せな新妻像に当てはまらなければ異常だ、と。

 友人や職場相手ならばまだやりすごしようもあるが、親相手ではそうもいかない。

 結婚を人生の通過点程度にしか捉えてない亜弥と、けじめをつけるべき大きな節目と捉えている母とでは、大きな溝があるのだ。

(だって、本当にやりたくないんだもん)

 花嫁姿は女のあこがれ──だが、すべての女がそうとは限らない。

 友人の結婚式は楽しかった。ただ、自分が主役になるのは嫌だ。

 美しく着飾って掲げられるのも、自分の人生は混じりけのない愛情によって育まれ、一切問題のない人間として巣立ったように見せかけるのも、おこがましくてできやしない──亜弥には、自意識過剰が強すぎるきらいがあった。本当は挙式だってしたくないのに、親がうるさいから挙げて『あげる』のだ。

 ならばせめて、だれを呼ぶかぐらい自分の自由にさせてほしい。

(職場の人を義理で呼んで、義理でご祝儀出させるのも悪いし)

 そういった頑固さが、親子の溝をますます深めていくのだった。

 乱暴に電話を切り、急いでイヤフォンをつける。

 ここのところ、母と話すたびに結婚式の話題になり、そのたびに険悪になる。音楽で頭を空っぽにしたかった。

 流れるのは英語のバラードだ。少しは英語の勉強でもしなおすか、と半ば気まぐれで昔の映画の歌をあつめ、聞いては歌っている。

 繰り返し聞き、口真似をするたびに、雑音でしかなかった英語が、意味を持つ言語として脳に届くのはなかなか楽しい。

 

「Schoolbag in hand, she leaves home in the early morning

 Waving goodbye with an absent-minded smile.

 I watch her go with a surge of that well-known sadness

 And I have to sit down for a while」

《朝早く、鞄を手にあの子は出ていくの。手を振って、寝ぼけた笑顔で。

 彼女を見送ると、よくわからない悲しさに襲われて、しばらく座り込んで動けなくなるわ。》

 口ずさみながら、ふとこれが母の歌であることに気づいた。

 成長した娘を見送る母の、せつない思いを歌った。

『Slipping through my fingers all the time 

 I try to capture every minute

 The feeling in it

 Slipping through my fingers all the time.』

 半ば呆然としながら、歌詞を検索する。もはや歌は口にしていなかった。

 玄関が開く。夫は驚いた顔をして亜弥を見つめ、心配した。

 亜弥は何でもないと頬をぬぐい、イヤフォンをしたまま家事へと戻った。


 了


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