旅がしたかった人生だった。
まだ死にません。死ぬ勇気がありません。もし唐突に死が来るのであれば、あらかじめLINEで教えてほしい。
そうしたら人生の終わりに一回でもいいから、どこか行く当てもなく旅がしてみたい。でも、僕は生きている間に旅をしようと思えるほどのアクティブ性や積極性はないと思う。

だって、実家が農家だったから!

高校から大学時代、そして社会人になった今でも、友達や先輩からあの言葉をよく聞くのよ。「旅行に行った」と。
そうしたら、それを聞いた周りの人たちは「どこに行ったの?」とか、「誰といったの?」だの、「楽しかった?」みたいに、ものすごく興味津々に聞くのよね。

誰か一人が旅行に行ったという話を切り出せば、みんなその話に興味を持ち、我こそは其の旅なる話を聞きとうござると言わんばかりに、一斉注目するんだよ。それはもう、井戸端会議どころではない。ダム完成式展会場と化しているのよ。その間僕は何をしているかというと、全く話に乗れなくて、完全に一人島流し状態でアマゾン川に浮かんでいる。場合によっては、ピラニアに肉だけでなく心までズタズタに食いちぎられているというありさまで、気づけば世界一周しており、まさかこんな形で世界一周旅行するとはという感じで世界一周しており、「なんか、どうしたん?」と呼びかけられながら、井戸からぼろぼろになった僕が引き上げられるという有様になることさえある。

最初にも言ったんだけど、実家が農家だったことが、僕の旅に対するモチベーションの無さに繋がっていると思うんだ。実家の両親は黒毛和牛を育てていて、毎日のように牛舎を掃除し、餌を与え、牧草を集める仕事をしている。つまり、一日たりとも休みの無い生活を送っている。協力者に頼めば一日くらい休みを取る融通はきくが、それは母が母方の家に帰省するときだけ。それ以外で、家族全員が一日二日休むことなんでないのよ。

僕にはこういった「生まれながらにして旅ができない」家庭環境があって、それゆえ「旅がしたいなあ」「来月旅に出たい」と思うことがない。
仮に旅がしたくなっても、それはかなわぬ夢だということがわかっていた。だから、僕はこれまで旅に出たいなどと思うことがなかったし、これから先も旅に出たいと思うことはないだろうと思う。実家を出て、京都で仕事をしている今この瞬間、この期間がまさに僕にとっての長いとも短いとも言えぬ、ただ一つのかけがえのない旅になるのだろう。

と思ったが、数年前実家に帰ったとき、何年かぶりに会った妹の土産話がフランス旅行ときてイタリア旅行、しまいにエジプト旅行だった。
そんな妹に「兄ちゃんは旅行にいかないの?」と聞かれ、僕は「何度も行っているさ。アマゾンにな、そして世界を」というセリフを我が心の中で何度も唱えつつ、「井戸から引き揚げてくれてありがとう」という感謝の気持ちをいだいたのだった。

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