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737発達障害 人類総体にとっては価値あり

 福祉予算を確保するために「作り出された概念ではないか」。そんな感想を持ちます。身体障害、知的障害、精神障害とされてきたところへ発達障害が加わりました。新たな名称をつける意図は? 福祉水準は予算の規模ではありません。どれだけ幸福度が上がったかが評価基準です。
 辞書によると発達障害とは「脳機能の発達に関係する障害」とのこと。さらに細分されて広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害など細かく分けられ、どこまでも細分化と新規発見が続いているように見えます。総じて「発達障害のある人は、他人との関係づくりやコミュニケーションなどがとても苦手ですが、優れた能力が発揮されている場合もあり、周りから見てアンバランスな様子が理解されにくい障害である」とも書かれていました。
 多様は発達障害の分類ですが、実は一人でいくつもにまたがることが多く、視覚障害と聴覚障害の区分のようにはいきません。親にとっては「分類よりもどう育てればいいのかの実践法を教えてくれ」ということではないでしょうか。周りの人も「どう接すればいいのか」を知りたいことでしょう。
 その一つ注意欠陥多動症と判定されている子と接しました。よく命名したものでその名のとおり、余分な動きばかりです。コンビニまで行くにも、転がっている石ころを蹴って路地に入り込み、道路に駆け戻ってきて車に引っ掛けられそうになります。「跳ねられたらどうするの!」。厳しく叱ると素直に「ごめんなさい。もうしません」。その実、聞いてはいません。数分後には同じことの繰り返しです。
 なだめてもすかしても多分、効果は同じ。こうなると矯正するのではなく、そういう個性なのだと認知して、周りが気をつけるしかないのではないか。アメリカなどでは発達障害という「障害区分はない」とも聞きました。
 突然頭に浮かんだのが、他の動物種ではどうなっているのか。例えば草食のシマウマだったらどうか。多動症の子が生まれたとしましょう。幼い子は群れの中心部にいるものですが、その子は興味につられてふらふら群れの外に出てしまいます。そしてコヨーテなどに襲われる。成人するに至りませんからその子の遺伝子は途絶えます。遺伝子の突然変異が起き、それがたまたま種の発展にふさわしい場合は子孫の繁栄を通じて種全体に広がっていく。これが遺伝の基本ですが、変種遺伝子を偶然に持った子が成長して子を残さないのでは宝の持ち腐れです。
 種の発展は突然変異の遺伝子が継承されてる種の大勢になることで実現します。その点、人類は風変わりの個体もコミュニティ内では受け入れます。そうした中に後で天才ぶりを発揮する者が現れることがあります。そうして人類は他の種と異なり、文明を発展させてきたとも考えられます。
 いわゆる「発達障害」という区分けと特殊な扱いはいいことなのか。生物種としての本質を外れているのではないか。そんな気がします。
 予算を確保し、行政機構を増やし、外郭団体、天下り機関を作り、営利に群がるブラック企業集団をはびこらせるのは順序が違います。個性に応じた育て方、接し方の事例を収集しよい方法を普及するのが先ではないでしょうか。それに必要な範囲において予算措置を考える。福祉の利権化は偽善の際たるもの。これほど罪深いものはありません。

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