762東電元幹部無罪判決 責任は受益と相関するはず
東日本大地震に伴う津波で壊れてしまった福島第一原子力発電所。少々の津波には耐えられる構造になっているけれど、設計で想定していた規模を超える津波が押し寄せれば耐えられないのは自明の理。
そこで問われるのが「どの規模の地震や津波までを想定しておくべきか」。そこで必要なのは常識的判断であろう。
壊れた発電所から漏れ出した放射線により、国からこの地域に住み続けてはならないと避難を強いられた結果、知らない土地での生活ストレスで健康を害して死亡する人が多数発生した。
東電があの規模の津波はありうると想定して発電所に必要な装置を施していれば、発電所は壊れず、放射線は漏出せず、政府な避難命令を出さず、病気になる者は発生せず、死亡者は出なかった。そうであるからには原因者を処罰しなければ社会秩序を守れない。
それで東電の元経営責任者が業務上過失致死罪で起訴された。遺家族のやりきれない怒りはごもっとも。だけどそれで東電の元社長を獄に繋げるのか。前例踏襲した検察官は不起訴にしたが世論が許さない。一般有権者からなる検察審査会は断固起訴すべきだ議決したから指定弁護士の手で起訴をした。
しかし地裁は無罪。控訴した高裁でも無罪になった。これが2023年1月18日の判決。ポイントは、「どのレベルの津波を想定すべきであったか」。理論的には津波の高さは無限大だ。6600万年前の巨大隕石激突の際の津波は数百メートルとされているし、それを超える規模の津波が起きる可能性は絶対のゼロではない。一方、発電所を稼働させるために投じられる資金には限度がある。折り合いが必要なのだ。その折り合いをつける点が各自で違う。
裁判所は東日本地震で押し寄せた津波は「想定対処すべき範囲外だった」とした。だが多くの国民は「裁判所の判断基準は低すぎる」と思っている。より多くの人が納得する基準はどうあるべきか。
ここで必要なのは「責任は受益に見合ったものであるべき」という原則だろう。マンションに押し入った強盗な理事長が鉢合わせした。理事長か身を挺して戦わなかったため住民が強盗に刺された。理事長はいかなる罪に問われるべきか。「無報酬なのにとんでもない」となるだろう。だがその理事長が高額の報酬を管理組合から得ていたとしたらどうか。「住民の安全に相応の責任があるはず」と判断は変わる可能性がある。
企業経営者も同じこと。社長の報酬によって期待される責任は大きくなる。ニッサンのゴーン社長への日本国民の風当たりが強いのは彼の報酬が法外の高額だったからだ。東電の社長報酬は当時7200万円だったとされている。実際には役職によるその他の余得があるだろうから合計する必要がある。引退後に予定される手当も現在に置き直して加える必要がある。そうすると年収1億円を優に超えるだろう。 それでも責任を負うべきではないとすべきかどうか。国民が問うているのはその点ではないかと思う。
ところで死亡との因果関係では「放射線の危険度はほんとうに町を捨てなければならないほど危険だったのか」とボクなどは思ってしまう。その後の福島県産魚介類などへの風評被害などの原因にもなっているのは当時の総理大臣の異様な騒ぎようではないかと思ってしまう。こちらの問題をなぜ追及しないのか。そして政権交代があったにもかかわらず、だれに気兼ねしているのか、それをいまだに是正できない。
発電所敷地には処理水を貯めるタンクが並ぶ異様な光景になっている。無害は明らかなのだから、海洋放出すれば片付く。にもかかわらず先送りを続けている。岸田総理は耳を傾けるのが得意と自賛している。でも偏った意見だけを聞いていたのでは、国民の声を聴いたことにはならない。