220526赤穂浪士と山鹿素行 『物語日本史』から
平泉澄(きよし)先生の『物語日本史』を読んでいる。東大の史学教授を勤められた大先生の書物だが、肩が張らない平易な書き方になっていて、読むほどにめっぽう面白い。
執筆の理由は「序」に書かれているとおりで、自分の国の歴史、父祖の辛苦と功業を子孫に伝え、その精神を継承することの重要性を説きたいためとされている。
戦後のWGIP(War Guilt Information Programの略で日本民族はとてつもなく性悪であるとするプロパガンダ)の効果で、自国の歴史が悪意を持って捻じ曲げられて教科書化され、教える側も学ぶ側も苦痛しか感じられない歴史教育になっている。ある日、先生が郷里の中学校で短時間の歴史講和をしたところ、生徒たちの瞳が事実に触れた感動で輝き、真情流露する手紙を何通も受け取った。それを契機に子どもたちに呼びかける体裁にしたという。
平泉説を紹介始めればきりがないが、ボクには目からうろこだった一つが「忠臣蔵」の真相。赤穂藩の城主、赤穂長矩が抜刀厳禁の江戸城内松の廊下で高家(儀式指南役)の吉良上野介に「遺恨、思い知ったか」と切りつけた。なぜ禁止行為に及んだのか。赤穂藩は皇室の勅使役を仰せつかっていたが、長矩は二度目で前回は無事に勤め上げている。今さら指南役から教えてもらう事項があったのか。それとも吉良が長矩サイドからの賄賂を足りないとして意地悪したのかなどとさまざまに解釈されている。事件後の幕府の処理はといえば、切りつけた浅野が一方的に悪いとして切腹御家とりつぶし、吉良側にはお咎めなし。喧嘩両成敗ならまだしも裁きが不公平であるとして、家老の大石内蔵助以下47士が吉良邸に打ち入って吉良の首を刎(は)ねた。その際、山鹿流の陣太鼓で鬨の声を上げとされる。
これって現代の視点では理解が難しい。抜刀して傷害したのは浅野の側。客観的に分が悪い。両成敗なら我慢できるという論理は成り立たないように思える。それに切りつけた相手を襲撃するのもおかしい。幕府の裁定が不満での襲撃であれば、幕閣の要職か思い切って将軍を狙うのが自然のはず。また市街地での討ち入りなのに、なぜ仰々しく陣太鼓を叩くのか。
平泉先生の本によれば、これはその種の喧嘩ではなく、統治のあり方をめぐる政治闘争なのだという。かいつまめば山鹿素行の学説は、中国伝来の朱子学はわが日本の国情には合わないというもの。中国では政治権力は力によってそっくり入れ替わり、それを革命と称して受け入れている。しかしわが国では精神的支柱は皇室で一貫しており、俗世の権力を幕府が行使する場合も、皇室からの委任を受けてのものである。そのことで日本社会は安定しているのであり、学者はそうした歴史をしっかり伝えなければならない。しかるに外来の朱子学理論の枠から出ようとしないのは何たることか。
山鹿素行のそうした主張は幕府の枢要部には愉快でないから、江戸での教授活動が禁圧された。その彼を受け入れたのが赤穂藩であり、歴代藩主も家老(大石家)も素行の弟子になり、山鹿説に染まっていたのだという。そこで皇室の勅使への対応だが、将軍の方が偉いとする幕閣および高家吉良家と、皇室が上に決まっているとする山鹿説を信奉する浅野家とで、饗応方針をめぐる対立があり、それが沸点に達して刃傷事件になったとする。そうであれば幕府の裁定にも筋が通る。
学校の授業でそういう観点からの説明をしている教師はいるのだろうか。あるいは文科省の指導要領ではどうなっているのだろうか。ちなみに手元の歴史教科書2冊を見たら、1冊は吉良のいじめ侮辱を原因とし、もう一冊では赤穂事件そのものの記述がなかった。
ネットでは平泉先生の説をさらに発展させて詳しく解説しているものもあった。例えば「ねずさんの学ぼう日本 歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」。
https://nezu3344.com/
歴史は英語では「history」。つまり「彼(彼女)の物語」。人について語るのでなければ楽しくない。
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