神・遺伝子vs.個人意思 優位は明らかのはず
性転換した”元男性”が凍結保存していた精子を使って生まれた子どもとの間で法的に「父子関係」が認められるか。最高裁で争われた事案での判決が下された。2024年6月21日の判決は、「血縁上の父親の認知が認められなければ子どもの福祉に反する」と判断した。
判決は4人の裁判官全員一致で、「生物学上の父親が性別変更後に子どもを設けた場合にも、親子関係が成立する」とした。まず常識が通った。
子どもは精子と卵子の結合によって生まれる。精子の提供者が父親で、卵子の提供者が母親。これが生物学上のルール。遺伝子(DNA)のなせる業(わざ)であり、キリスト教徒などでは神(God)の意思ということになる。
これをややこしくしているのが性転換”を人間が法制度として容認するという愚を犯していること。男であったときに体外に取り出して凍結保存していた精子には生殖能力があるから、卵子と合わせれば子どもが生まれる。ところが精子の生産主の男子は存在しない。だって法的には既に”現女性”になっているのだから。
それはおかしいではないか。これが常識的判断。今回の最高裁判事たちには常識人の血が流れていた。しかし、人間が作った法律とは矛盾する。その”元男性”は生きていて、しかも”現女性”である。「女性が父親である」なんて論理的にあり得ないはずだということになるからだ。人間には男性と女性の区分があるという大常識に照らしてもおかしい。性転換法の推進者たちは、「最高裁判事たちの頭はおかしくなったのか」と苦慮することになる。
どこがポイントか。実は簡単なことなのだ。性転換を法的に認めるということをしなければ、今回の問題はそもそもあり得ない。「生物学上の『父母』と法律上の『父母』の不一致が子どもを不幸にするのは許されない」というのが今回の最高裁判断。そうした不一致を起こさせなければ問題は元より生じない。これが一般常識的発想。
ではどうする? ポイントは生物学上の『父母』(神の意思)と法律上の『父母』(人間の浅知恵)の間の優先関係。難しいことを捨象して素人的に考えれば結論は明らか。当人の意思で法的に性転換できるという考えを取りやめればよいだけのことだ。善かれと思って始めた立法でも間違いはある。しかもかなりの確率で。今回もそのケース。拙速な法的整理(法的な性転換の容認)をすべてやめればよいだけのこと。割り切って言えば、世の中にはできることとできないことがある。意思の力で何でもできるとするのは思いあがりの独善である。
性の不一致で苦しんでいる人への思いやりに足りないと批判はあるだろう。だがわが国社会は、性的指向の表明や実践にすこぶる寛容である。男装・女装、同性愛カップル。まだ寛容性が不足というなら社会的容機運をさらに盛り上げてもよいだろう。それで苦しんでいる人が楽になるなら進めるべきだ。しかし、それを理由に、遺伝子で決定された生物学上の性を別の性に”法的に”変えてよいことにはならない。いっときのムードで性転換の法的容認をした。その結果の一つが今回の事案である。立法者が思い上がりだったことを反省して後退するのは今である。
動物の多くの種(人類もその一つ)はオスとメスでできており、その区別は受精時に決定される。この原則を法律ごときで変更してはならない。裁判所は訴えがあったケースしか判断を下さない。しかし性転換法について本気で正面から憲法判断したらどうなるだろうか。今回の稚拙な立法傾向に待ったをかけるのも司法の役割のはずである。