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640東電の経営者責任 4人で13兆円

プーチン氏なら払うだろうか。東京電力の旧経営陣の面々に対して下された東京地裁の判決についても感想である。
2011年3月の東京電力福島第一原子力発電所の事故について同社の株主が起こした裁判への司法の回答だ。この事故で東京電力は施設の全損に加え、被害者への賠償義務を負うなど超巨額の債務を負うことになった。会社の看板も棄損した。だれに責任があったのか。訴訟を提起した株主の考えでは、当時の経営陣が国の安全基準をないがしろにしたのが原因であった。
これに対し被告の会長(当時)らは、政府の評価は信頼性が低いと反論していた。また仮に想定される津波が予測できたとしても必要な対策を講じる時間的余裕がなかったのだと主張した。
これに対し裁判長は、原子力発電所は危険性を内包する施設であるにもかかわらず、それを踏まえての安全意識や責任感が根本的に欠如していたと指弾した。そして冒頭の賠償命令になったわけだ。

「これぞ司法判断。行政追随でない三権分立を示した」。ボクはそう評価したい。
13兆円を4人で均等すれば3兆2500億円。彼らにこんな資産はないだろう。しかし司法では正義、衡平が基準になる。東京電力が蒙る損失、債務に有責の個人がいれば、その者に払わせなければ正しい裁判とは言えない。もちろん故意、過失の責任度合いが小さいと判断されれば、支払額は圧縮される。その場合は株主が損失を引き受けることになる。それでも足りなければ融資している銀行などが損失を分かち合うことになる。その先は取引先企業、さらには従業員への賃金カットや解雇と及んでいく。
 しかし今回の件では、経営陣があまりも無能、無責任であり、責任を免除する要素が少ないという判断になったものと推測される。
単に結果責任ではない。危険を内在する施設との前提での想定すべき対応をしておくべきなのに怠った責任を問うているのだ。国の基準に合理性がないというのであれば、建設運転の前に異議を申し立てるべきであった。それで電力不足でブランクアウトが生じたとしても、それは電力行政を担当する経済産業省の責任であって、東電経営者の問題ではないと言えたはずであり、言わなければならなかった。そうすれば国の方でも、絶対に事故が起きない発電所にせよなどという非現実的な基準を押し付けることはできないはずである。国のエネルギー政策と電力会社の発電義務をごっちゃにしてはいけない。それぞれ権限を与えられているのだから、それぞれの責任を果たしてもらわなければ困る。それが今回の判決である。
 冒頭のプーチン氏なら払うだろうかの意味である。彼は個人資産22兆円だそうだから、その気になれば支払える。だが、彼は払おうとしないだろう。独裁者の彼は、自分に不利な判決を下す裁判官の存在を認めない。もしいれば「消す」だけのことだ。
だが、日本は民主主義、法治の国である。東電の旧経営陣は論理と証拠で株主に負けた。いかに社会的地位がある者でも権威で判決を左右できないのだ。
 解せないのは被告以外の東電の幹部従業員である。社内に旧経営陣を糾弾する声があるのかないのか。実は自分たちも原発の危険性に頓着していなくで、同等に有責である思うのであれば、手を挙げて被告席に連なるべきだろう。4人ではなく、仮に4千人で割れば32億5千万円。これだと払える者が多少は出てきそうである。逆に経営陣の暴走で止めようがなかったと言うのであれば、その事実をもっと世に語るべきだろう。
 旧経営陣は控訴したそうだから上級審でどうなるかは予断の限りではないが、日本社会で曖昧なままになっている経営者の個人責任について幅広く議論されることを期待しよう。

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