458石原莞爾の手紙
『石原莞爾のヨーロッパ体験』という本を読む。著者の伊藤嘉(よし)啓(ひろ)さんは1936(昭和11)年生まれ。伊藤さんの世代は80歳代半ば、実際の戦前を知る残り少ない世代になる。
さて石原莞爾(1889年生まれ1949年没)という軍人。陸軍始まって以来の秀才と評する声もあるが、それ以外の姿を描く書物が流布しているようで、はたしてその実像はどうだったのか。この本で明かされるのは、家族思いでドイツ留学中にこまめに日本に残した妻に送った近況や心境を伝える膨大な数の手紙である。そのなかにも、普通の日本人と違う点として、外国人に対して物おじせず日本のあり方、立場を譲らず説き聞かせる姿が描かれている。著書も多く、信奉者は少なくなかったようだ。
同じ大学に進学して下宿が近かった関係で、ちょくちょく行き来があった高校の同級生から「石原莞爾の世界最終戦争論を知っているか」と問われたのが、この将軍の名前を知った最初。彼はトロツキーの世界同時革命論を知っているかなど、さまざまな議論をふっかけ、ボクにとっては政治思想面での先導者だった。卒業後高校の理科の教師になったはずだが、物理と国際政治、どちらを生徒に教えていたのだろう。
さて石原将軍が唱えた「世界最終戦争論」について。手元の『体系日本の歴史14巻』(小学館、1989年)188頁では次のように記述している。
-石原によると、世界最終戦とは西洋文明の選手権を握ったアメリカと、東洋文明の選手権を握った日本とのいずれが世界の中心になるかをめぐって、ちかい将来に戦われる「人類の最期大闘争たる世界大戦」であり、それに備えるため日本は東洋文明の選手権を獲得しなければならないが、そのための第一の目標となるのが満蒙問題の解決であって、満蒙問題は満蒙を日本の領土とすることによって解決されるという。-
この論に依ると、世界征服戦争準備の首謀者として石原こそポツダム宣言(1945.7.26)4項の「無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘(わがまま)なる軍国主義」者となりそうだが、実は東京裁判の被告にもなっていない。証人尋問の場で、「満州事変の中心は自分であり、軍の満洲建国の立案は、自分の手になったものである。その自分が、戦犯として法廷に召喚されないのは不思議である」と述べたことは、広く関連書物で触れられている。
東京裁判の被告名簿から漏れていることは、石原将軍に対する罪責を連合国側で見つけることができなかったのではないか。ところで祖国を破滅の淵に陥れた者については、自国民こそ主役として敗北に導いた者の責任を問う総括がなければなるまい。それが終わるまではあの戦争はまだ終わっていない。自民党の総務会長もした堀内光雄さんのような大物政治家も、著書(『「靖国」と「千鳥ヶ淵」を考える』)でそう訴えている。
敗戦から80年近く、優に2世代の年数を経過した。戦争を実際に体験した人がいなくなり民族としての体験が風化してしまう前に、国民自身の手の総括する必要があるのではないか、当時の政治指導者たちが、この国の独立をどのように維持していこうとしていたのか。その際、思想面で石原将軍などは重要な検討対象になるはずだ。
冒頭紹介の本は石原大尉(当時)のドイツ留学期が舞台である。時機は第一次世界大戦の直後。ドイツは敗戦国であった。石原はこの戦争を研究するうちに、この戦争が、従来の短期決戦型とは全く異なる国力を消耗しての持久型であることに気がついた。そしてこれからの国運をかけての戦争は、長期持続型に転換すると確信した。わが国ではその認識、覚悟、準備があるかを自問し、近視眼的な状況対応策のみが政策とされることに対して暗澹たる気持ちになる。それが国家のトップ指導層への反発となり、「東条英樹は上等兵レベル発言」につながったと思われる。
国家指導層に長期的戦略眼があれば、そしてそれが最高指導層に共有されていれば、対米、対中、対ソ等の対応策は当然変わっていたはずだ。少なくとも「石油の備蓄があるうちに開戦しよう」とか「半年は暴れて見せるが、その後は知らん」ということにはならなかったと思われる。
では今の日本の状況はどうか。自由と民主主義の敵対者として中国、ロシアなどが繰り返す挑発を総合的に分析すれば、超長期の戦争はすでに始まっているとの分析が正しいのではないか。彼らは戦争の方法として、敵国日本の国力を疲弊させるかの作戦を立て、着実に実施している。
バラマキ政策をさせることで財政をひっ迫させる。
技術を窃取することで経済競争力を低下させる。
固有文化の伝統を衰えさせることで国民の連帯感を弱体化させる。
威嚇言動で外交攻勢を鈍らせる、などなど。
思い当たる節が多々あるように思えるが、ボクだけの気のせいだろうか。
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