837 鈴木莊一著『昭和の宰相 近衛文麿の悲劇 外務省興亜派の戦争責任』を読む
近衛の述懐。「自分は戦争前は軟弱と侮られ、戦争中は和平運動家とののしられ、戦争が終われば戦争犯罪人と指弾される。」
政治家の宿命だが、結果でしか評価されない。近衛元総理に対する認識が改まる本だった。
著者(元国策銀行の調査員なので資料分析信用できるはず)によると、第二次大隈内閣が第一次世界大戦にどう立ち向かうかの時期におけるわが国の方針は次の二つに絞られていた。以下本書からの抜粋。
―――実は、急速に力を付けてきた日本に対し、太平洋制覇を目論むアメリカが日本の軍事征服を狙った「オレンジ計画」を策定していた。アメリカはオレンジ計画をハワイ併合前年の明治30年(1897年)すなわち日露開戦の7年前に策定し、日露戦争後は一段とブラッシュ・アップ(磨き上げること)して、虎視眈々と日本制服を狙っていた。この恐るべきオレンジ計画を封じ込めたのは、第二次大隈内閣が第一次世界大戦に連合国の一員として参戦し、イギリス・アメリカの友軍としてドイツと戦い、オレンジ計画を一時的ながら空洞化させたことなのである。
この時期、77歳の山県有朋は既に耄碌していたためか、こんな明白な国際軍事力学を理解できなくなっていた。これが老害なのだ。そして山県は第二次大隈内閣の親英米外交を不満として倒閣運動を仕掛け総辞職へ追い込んだ。第二次大隈内閣と山県の対立は、
一、大隈内閣の外相加藤高明の、英米協調により平和を希求する外交方針と、
二、山県の欧米白色人種に対抗し支那・朝鮮と黄色人種連合を組む軍事外交思想が、まったく相容れず、激突したからである。
世界の最強国アメリカが日本制服計画であるオレンジ計画を策定して虎視眈々と日本制服を狙っているなか、日本がこの魔手から逃れるには二つの方策しかない。
第一の道は、日英同盟を堅持し、イギリスと連携することにより、アメリカの仲間になる。ヨーロッパで大戦争が起きれば躊躇なくイギリスを軍事支援し、アメリカに対日開戦の口実を与えない「第一次世界大戦型の外交方針」である。これが第二次大隈内閣の外相加藤高明の外交方針なのだ。
第二の道は、アメリカ・イギリス・フランスなど欧米白色人種連合に対抗して、日本は支那・朝鮮と黄色人種連合を組み、黄色人種連合の盟主として白色人種連合と戦う「吉田松陰・山県有朋ら長州攘夷思想の系譜」である。昭和前期の日本は、この道を選択し、日本国民は苦難の軍拡経済に耐え、日本将兵は勇猛果敢に戦った挙句、力尽きて大敗北を喫した。
本書によると陸軍内には次の思想グループがあった。
A 宇垣派:与党政治を尊重し、軍縮を通じて装備近代化を図り、軍事予算の傍聴を避ける。支那・英米との協調を目指す。大正デモクラシーと共存する主流派。宇垣一成、南次郎、金谷範三など。
B 皇道派:農村救済予算などの増額を求め、ソ連のみを仮想敵国とし、対ソ戦を主眼とする。『一国国防手技』に立ち、支那・英米とは協調し不戦を堅持する。日露戦争以来の伝統派閥。荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎など。秩父宮が支援。
C 満洲組:政党政治を否定し、陸軍予算増額を求め、対ソ戦を想定する。『一国国防手技』に立ち、支那とは不戦を堅持し、英米への対抗を期す。大正デモクラシーに背を向けた新興派閥。石原莞爾、板垣征四郎、多田駿など。
D 統制派:政党政治を否定し、陸軍予算増額を求め、ドイツと連携し支那を一撃してソ連・英米と戦う『集団国防主義』を指向する。。大正デモクラシーに背を向けた新興派閥。肥大化した陸軍組織を統制する必要上、昭和8年頃に発生した官僚グループで、予算獲得・組織統制などに剛腕を発揮したが戦争は下手である。権力拡大・予算獲得のため、つねに主戦論・強硬論を唱えて軍国主義化を推進し、死那事変に積極的に関与し、ついには太平洋戦争に踏み込む。永田鉄山、東条英機、武藤章、鈴木貞一など。昭和天皇がバック。
本書は外交を仕切る外務省にも派閥があったことを示してる。その勢力図はい以下のとおり。本書にはもっと多数の人名が出てくる。。
満州事変(1931(昭和6)年9月18日)以前の主流派は、幣原喜重郎、松平恒雄であったが、山県外交を遵奉する内田康哉、広田弘毅、有田八郎、重光葵などの「興亜派」に取って変わられた。
この興亜派が陸軍統制派と結託することで対英米戦争に突入していくことになる。
当時の外務省在籍者はどういう気持ちで仕事をしていたのだろうか。国策を誤り、300万人の命と資産、それに領土を失った。敗戦後に共産革命にならなかったのは偶然の要素が大きい。
著者は、外務省興亜派として非分析的外交政策を推し進めた者たちを許さないという姿勢を明確にしている。
本書が示す参考資料数値。国民はだれも知っていることだが、改めて数値を確認すると、馬鹿な外交政策ぶりを強烈に感じてしまう。
日本の戦争死亡者
①昭和16年12月8日から昭和17年5月4日(ビルマ作戦終了)
軍人 2万人 民間人 0万人
②昭和17年5月5日から昭和19年10月26日(レイテ沖海戦)
軍人 34万人 民間人1万人
③昭和19年10月27日から昭和20年8月15日(終戦)
軍人 124万人 民間人 29万人