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220527日本の三蔵 19世紀初頭の著名人

「日本の三景」といえば、松島(宮城県)・天橋立(京都府)・宮島(広島県)。「維新の三傑」といえば、木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛。
では「日本の三蔵」とは? 日本大百科全書では「三蔵(みつくら)」として、「大化前代の大和(やまと)政権における3種の財庫の総称。神物を納める斎蔵(いみくら)、大王家の財庫内蔵(うちくら)、政府の財庫大蔵(おおくら)の三蔵」とあった。
ただしここでは平泉澄(きよし)先生の『物語日本史』に出てくる名前に「蔵」の字がつく江戸時代後期の3人。聞けばハハンと頷くことになるかも。ちなみに中心蔵の大石内蔵助は、その討ち入りが1703年なので時代的に合わない。
 
平泉先生が挙げるのは次の方々。物語日本史(講談社文庫下巻106頁以下)から抜粋しよう。
まず近藤重蔵(じゅうぞう)。「探検家として有名な近藤重蔵は、元来我が蝦夷(北海道)の属島であった千島の島々が、ここ数十年の間に、次第にロシアの併呑(へいどん)されていったのを慨嘆(がいたん)し、寛政12年(西暦1800年)最上(もがみ)徳内(とくない)とともに択捉(えとろふ)島(とう)に渡り、大きく「大日本(だいにほん)恵(え)土呂府(とろふ)」と書いた木の標柱を立てましたが、その時、年は30歳でした。そのころまで、蝦夷一帯、すなわち北海道、千島、樺太は松前藩の所管でありました。…享和(きょうわ)2年(西暦1802年)幕府はこれをほかに移して、蝦夷地を幕府の直轄とし、特に国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の守備を厳重にしました。
 
次が平山行蔵(こうぞう)。当時の旗本御家人が無事太平に慣れて武備を忘れ、気概を失っている中、日夜鍛錬を怠らず、兵学の講じる武士だったとのこと。「しかるに文化3年(西暦1806年)ロシア人樺太に来襲し、翌年には択捉島を襲い、それぞれ略奪(りゃくだつ)放火(ほうか)をほしいままにし、かつ住民を捕えて帰りました。…49歳の平山行蔵は、我が国北方の領土がロシアに侵されるのを聞いて憤激に堪(た)えず、幕府に願書を提出して、自分にその討伐を命じていただきたい、自分は積弊を用いず、無頼(ぶらい)不良(ふりょう)の徒(と)を集めてこれを訓練し、これをもって外敵を一掃しましょう、と申し出ました。」。残念なことに軟弱幕府は、この提案を受け入れなかったと記されている。
そして間宮林蔵(りんぞう)。「文化5年(西暦1808年)、この年に間宮林蔵は、国境の見聞を命ぜられて、樺太の西海岸に赴き、これがアジア大陸の地続きではなく、離れ島であることを想定し、翌年実際に海峡を突破し、さらに大陸の沿岸まで見(み)究(きわ)めて、これを確認しました。樺太は元来松前藩の管理した所で、元禄13年に幕府に提出した藩の地図にも、これを島として記(しる)しているものの、実地の探検によって確認したのは、間宮林蔵が最初でした。林蔵は、文化5年に34歳、6年に35歳でした。

当時の世間は、この近藤重蔵、平山行蔵、そして間宮林蔵の日本の三蔵と呼んだとのことだ。

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