Vol.19 松永 祥兵
日頃からSS伊豆を支え、温かいご支援、熱い応援をしていただいているスポンサー企業の皆様、サポーターの方々。
この場をお借りして、改めて厚く御礼申し上げます。
背番号10、松永祥兵です。
僕にはサッカーを始めた時からサッカー選手になりたいという漠然とした夢がありました。
無名だった僕がプロサッカー選手なり、そこから今までの軌跡を今回は書かせて頂こうと思います。
きっかけは小学校1年生の頃、野球かサッカーをやろうと迷ってるときたまたまテレビで三浦知良選手を見て、こんなかっこいい大人になりたいと思ったからです。
小学校1年生の終わり頃、長伏サッカースポーツ少年団でサッカーを始めたのですが、始めた当初は当たり前ですが上手い方ではなく、よく練習に行きたくないと親に言っていたみたいです。
少し上手くなってきたかもと実感したのは4年生の時でした。
三島市の選抜に選ばれキャプテンと背番号10番を与えられ三島ではある程度有名だったと思います。
そして小学校6年生の時、静岡県東部選抜の一員として、静岡県で開催された世界大会に参加しました。
スペインのエスパニョールや中国のチームその他色々な国のチームが参加し、初めて外国の選手と対戦し世界を間近で感じられ、“いずれ自分も世界で羽ばたく選手になるんだ“と思った記憶があります。
中学校に上がる前に地元のJの下部組織から10番とキャプテンをあげるからと誘われましたが、子供ながらにまだ何も結果を残してない僕にそんな事を言う指導者が信じられず、勉強とサッカーが両立できる加藤学園暁秀中学校に進学を決めます。
中学校に入学した時の身長が142センチで体力には自信があったのですが短距離は特別早いわけでもなく、身体能力でどうにかなる中学生サッカーには苦労した記憶があります。
小学生時代三島ではある程度有名でしたが中学校ではパッとした結果は残せず少し天狗になっていた僕は鼻をへし折られたような気持ちでした。
中学2年生の時、中学3年生の代で中体連の全国大会に出場したのですが、メンバー入りして試合にも絡んでいた同級生が2人いる中、僕は大会に参加する資格のあるメンバーにも入れていなかったのでスタンドで応援していた悔しい記憶があります。
なので身体が小さくて中学サッカーに馴染めてないあなた!問題ありません!成長と共にテクニックだけ磨いておけばきっと輝かしい未来が待ってます。笑
サッカーと勉強との両立とはいきませんでしたが、中学2年生の時に彼女ができ、サッカーと恋愛の両立はできてました!イエイ!笑
話はズレましたので戻します。
中学3年生になり体もある程度大きくなり始めた頃、ある大会でヨーイドンで裏に抜けた時ディフェンスを振り切り点を取った時があったのですが、あれ?俺足が早くなってる??という感覚をもちまた輝けるかもと自信を取り戻した瞬間が中学3年生の最後の大会でした。しかし時すでに遅しと中学校の成績は県ベスト8止まりで終わってしまいました。
そして高校生
もちろんですが中学時代の活躍ではどこからもオファーがあるわけもなく高校はエスカレーター式で上がれる加藤学園暁秀高校に進学しました。
高校では1年生からスタメンで出させてもらい楽しくサッカーできた記憶があります。
僕の時代は先生からフルボッコにされるのが普通で何回血だらけになったかと今ではいい思い出です。高校の後輩の真野くんは鮮明に覚えていると思います。笑
でもその経験があったからこそ根性が鍛えられサッカーに全力を注げたと先生にはとても感謝しています。
高校123年と順風満帆なサッカー生活でしたが最高成績はまたもや県ベスト8。
プロサッカー選手になりたいと思っていた松永少年にはもちろんプロの世界には箸にも棒にもかからずどうしようと迷っていましたが、なんとか国士舘大学に進学できました。
大学に入り、Jのユースでキャプテンをしていた選手や盛岡商業で全国制覇した超高校級の同級生の選手がたくさんおり当初は気持ちから圧倒されていました。
全くの無名の自分はもちろん一番下のカテゴリーからスタート。
確か上から数えて4番目のチームでした。
その頃感じたことは、プロになりたいと意気込んで大学に入学した自分や同じく夢を持って新しく入学した仲間とプロになれなくて夢を諦めた4年生たちとの温度差がありとても違和感を感じました。
部員が200名近くいてプロになれる選手は毎年3、4名。でもそれが現実でした。
大学1年生の半ば、僕が4年生になった時自分がプロサッカー選手になっているイメージが湧かず、何より当時の環境でサッカーを楽しめてない自分がいて自信も失いかけていました。
そしてサッカー自体を辞めようと考えていました。
そんな中、両親にサッカーをやめてフットサル選手になりたいと伝えたところ、
「今までサッカーを続けてきてそんな簡単に辞めたらもったいない」と意見をもらいました。
しかし自分は一度決めたらなかなか折れない性格なので、サッカー自体をやめようと考えていたところ母親がドイツのクラブが日本でセレクションをする情報を引っ張ってきて、セレクションにエントリーしました。しかし、規定の人数が集まらず日本での開催がなくなり諦めかけたのですが、ドイツに直接行けばセレクションを受けれるとの事で両親の支援もありドイツへ行く決意をしました。
今思えば両親も僕の夢を一緒に追いかけていてくれてた事がこのキャリアを作ってくれたんだなと感謝してます。
ドイツに行き“アレマニア アーヘン“というチームの練習に参加しました。
得点やアシストをし、契約までやっとのことでこぎつけたのですが、
「契約はできるが0円契約」と言われ当時の自分の状況ではその条件を呑むことは厳しく、結局諦めて日本に帰ることにしました。
しかし数週間後に奇跡が起きます!!
アーヘンの監督だった方がチーム事情によりアーヘンは獲得できないけど、いい選手だからと言ってシャルケに推薦してくれ、とんとん拍子でシャルケに練習参加できることが決まりました。
そしてそこでも結果が残せ、なんとシャルケと契約できたのです。
当時シャルケにはノイヤー、ラキティッチ、ヘヴェデス、クラニー、アサモア、ファルファン錚々たる選手がいました。彼らと練習でき、トップレベルを体感できたことは自分のサッカー人生の糧になったことは言うまでもありません。
シャルケと2年契約をし、ほとんどがセカンドチームでのトレーニングや試合でしたが、当時のシャルケのセカンドチームでは世代別の各国の代表選手ばかりで、かなりレベルも高く毎日が刺激的な日々でした。
現シャルケのキャプテンのデニーとは当時から仲良く今でもたまに連絡を取る中ですが彼がセカンドチームにいた事からセカンドチームのレベルの高さがわかると思います。
そしてなんと言ってもドイツでの生活は小野伸二さんに出会い交流できた事が僕の中の一生の宝物です。19歳だった僕をほぼ毎日食事に誘っていただき、プロとしてそして社会人としてのあり方を教えていただきこんな大人になりたいと思った記憶があります。
今でも伸二さんみたいな人になりたいという目標は変わっていません。
ドイツでは目に見える結果は残せず、僕を獲得してくれた監督が退任したと同時に出場時間が減り当時オリンピックに出場したいと夢を持っていた僕はこのままではその夢は叶えられないと半年の契約を残したまま、契約解除して日本行きを決意します。
今思えばある程度日本でチームを探してから日本に戻ればよかったと後悔していますが、当時はそんな情報も知識量もなかったので相変わらず出たとこ勝負の松永君でした。
日本に戻り浦和、甲府、水戸、愛媛と練習参加し、愛媛FCに加入し夢のJリーガーになりますが、欧州のサッカーと違い色々な事が求められる日本に順応できず、一年でクビになりニートになり、その後アメリカに行ったり、日本のクラブのテストに行ったりしましたが契約には至らずそんなある日代理人から一本の電話がなりました。
「インドネシアのクラブが日本人を獲得したいから3日後に契約前提のテストに来れるか?」と・・・。
即座にインドネシアの場所をグーグルで調べ、なんかジャカルタってテロがあった場所だよな〜怖いな〜と思いつつも3日後にはインドネシアに降り立っていました。
空港に着いた時、そのまま日本へ引き返そうと思いました。笑
2011年当時(11年前)は街は汚く空港を出た瞬間、“the東南アジア“が広がっていました。熱気の中人がいっぱいでごった返しており、スーツケース片手にとんでもない国に来てしまった・・・と思いました。
インドネシアに到着して次の日に練習参加してすぐに契約できたのはよかったのですが、
水に当たり、食べ物に当たり、虫刺されで足がめちゃくちゃ腫れたりと事件続きで初めの1ヶ月で5キロ以上痩せてしまいました。
毎日食べれそうな物を探して必死に生活していました。
2月終わりにインドネシア行って3月頭には試合に出場していたのですが、インドネシアはサッカー熱が高く、更に一番最初に加入したチームがインドネシアの一番のビッククラブで毎試合3、4万人動員するクラブでサッカー選手としては幸せな環境でプレーできていました。
インドネシアに渡り、デビュー戦で3試合連続ゴールを決めた事でインドネシアでどこにいっても声をかけられるようになりました。
インドネシアでは合計9年プレーしたのですが、インドネシアオールスターとしてユベントスと対戦したり、2017年にはチェルシー、レアル・マドリードでプレーしていたマイケルエッシェン選手やカールトンコール選手とチームメイトになれてとても嬉しかったです。
長くインドネシアでプレーしていた事が評価され2017年に日本インドネシア国交樹立60周年の親善大使に選んでいただきました。親善大使は元AKBの仲川遥香ちゃんやインドネシアの芸能人そして僕でしたので、貴重な経験をさせていただいたと同時に様々な企業のトップの方とご縁をいただき本当に感謝している次第です。
いいことばかりの事を書いてますが、実際海外に住んでいると事件ばかりでした。
インドネシアは広いので、遠征では10時間飛行機乗って更に目的の島に移動するためヨットで4時間乗り14時間の移動後に到着した島には電波がないのでまず電波を探して歩いたり・・・
チームに与えられた滞在先は水しか出ないシャワーとか、シャワーすらなく体を洗うためのおけの中に何故か金魚が入っていて、この金魚汚れを食べてくれるんだとめちゃくちゃなことを現地の人は言うけど、金魚絶対フンしてるやろって思った事など・・・
ダービーの試合は戦車でスタジアムの中まで移動したり、インドネシア人は基本時間を守らないことで、ヘトヘトになって長時間遠征から帰ってきた次の日にビザが切れるから更新に行ってくれと朝4時の便にまた乗せられたりとあげたらキリがないくらいエピソードはありますが。
なんと言ってもこの激動のインドネシア生活を文句も言わず一緒に乗り越え支えてくれた奥さんには感謝しかありません。ちなみに奥さんも金魚入りの水を嫌々言いながら浴びていました。笑 医療用語もわからない中2人の子供も1人でインドネシアの地方病院で生んでくれて彼女の武勇伝も相当です。
しかし10年ぶりに日本に帰ってくると最高です!でも20年後にはGDPも日本はインドネシアに超されるだろうし、子供の人生教育を考えたら、またインドネシアに住もうかなとも考えておりますw
日本では普通と思っている事が普通ではないし(当たり前に清潔な水・お湯が出る、ゴミが落ちていない環境、清潔なご飯、四季があるなど)、変わっている人がいるのが普通ですし、それが個性でもあるし、外国人として働いていたので遠慮なく言いたいこと言えるのも楽だったかもしれません。
2020年にプロサッカー選手として引退はしていますがそれと同時にSS伊豆の代表大輔さんから声をかけてもらい今SS伊豆でサッカーをさせてもらっています。
家族、仕事、サッカーの3つを両立はなかなか大変なのでクラブの活動にもあまり参加できず迷惑をかけっぱなしですが、小さい頃からやっているサッカーを今でもできていることに大輔さんや、スタッフ、選手には感謝しています。
今仕事は主に天然酵母飲料CoboMomをネットで販売しているのとインドネシアに進出したい企業のお手伝い、これからもっと面白い事をやりたいと目論んでます。
僕の人生を振り返って、キャリアだけ見たら順風満帆に見えるかもしれません。
現に今の文章もいいところしか切り取って話してません。
でも実際は挫折ばかりでうまくいかない事ばかりでしたが、常に「挑戦」をしてきた33年間でした。
SS伊豆の選手やnoteを読んでくれている夢を追いかける子供、親御さんに伝えたいことは、
自分はこれぐらいの選手だとかこれぐらいの人間と決めつけるのではなくもっと自分はできる!と自分を信じてチャレンジしてほしいです。まだまだ仕事もサッカーも何をするにも上に行けると思って行動して努力していれば手を差し伸べてくれる人が必ず現れます。
僕もまだまだ未熟ですが、夢を追いかけています。
サッカー選手の時に成し遂げられなかったことをこれから成し遂げたいと思っています。
人生一度きりなのでとにかく前向きに、そして死ぬ時に人生楽しかったと思える人生にしたいなと思います。
うまくいかない時こそチャンス
以上
天才松永でした
次はこれから海外にいく佐々木翔太君にバトンを渡したいと思います。