ほな、帰るわな #磨け感情解像度
(7/14加筆:
私設賞、#磨け感情解像度 で優秀賞をいただきました!
祖母の体験をもとに、戦争や死などを扱う重いテーマを京都弁で書いています。
暗く辛い話ですが、気持ちを込めて書きました。
せっかく選んでいただけたのでたくさんの方に読んでもらいたいです。
章末に標準語編も付けておりますので、そちらもご参考にいただけますと嬉しいです。)
右目が開かへんようなってしもたんは、誰かが投げた石が当たってしもたからやねんてな。
お父ちゃんは足が悪かったさかい戦争に行かんですんだけど、よう近所の人に石投げられとったて、お父ちゃんが死んでしまう少し前に、お母ちゃんに聞いたで。
「非国民や」言うて、あほらしいことやな。
「仕事で機械の操縦を間違えた」なんて、子どもに嘘教えたらあかんやん。
「せやし、お前ら疎開させて良かったんや。このぐらいですんだ。誰も死なんですんだ。」
そんなん言うて、お父ちゃん笑うけどやな。
一緒に米原から帰ってきた妹のよっちゃんと、「お父ちゃんの目、開かへんようになってしもた」って、ぐずぐず、ようけ泣いてしもたんやで。
仕事の事故ちゃうんかったんかいな。
石投げられたんかいな。
うちはお父ちゃんに石投げよった人なんか、はよ死んだらよろしいねんて思てしもたで。
もう死んでるかもしれへんから、今更やけど。
お父ちゃんの右目になったげなあかんて、うち、疎開から帰ってきたとき、思てたんやで。
うち、ちゃんと右目になれてたやろか。
「……」
かしわは嫌いやった。
疎開先の米原の凍った川で、よっちゃんと鳥を捕まえて、捌いて焼いて、気持ち悪いなあて言いながら食べたん思い出してしまうから。
せやけど、お父ちゃんはきっと、うちらがそんなんしたって知ったら悲しむやろうから、言えへんかったわ。
兄貴は東京行ってすぐ病気で死んでしもたし、弟は借金こさえてどうにもならんようになって、お父ちゃんは大事なもん全部手放さなあかんようになってしもたね。
朝鮮人と駆け落ちしてしもたよっちゃんのこと、結局よう探せへんかったうちにお父ちゃんは死んでしもた。
お父ちゃんが縁立ててくれたあの人は、貧乏やけどええ人やったで。せやけど、姑にはえらいいびられてしもて、お父ちゃんのことちょっと恨んでしもたこともあった。
富美子と多美子……もうどっちがどっちやよう分からんようになってしもたんやけど、あの子らにも可哀想な思いをさせてしもたかもしれへん。
「……なんやねんお前、『しもた』ばっかりやないか。そないに悪いことばっかりの人生でも無かったやろ。」
そんなことあらへん。
良いことの方がきっと少ない人生やった。
今日かて、身体拭いてくれてた子に、酷いこと言うてしもた。
あの人にもや。
富美子と多美子も、もうどっちが来てくれたんかわからへんねん。
もうお父ちゃん、うち疲れたわ。
なんも、一個もええことあらへん。
優しくなれへんねん。
全部口から出てくるようになってしもた。
「死んでしまいたいわ」て吐き出すように言うてしもた日は、毎日毎日夢でお父ちゃんが出てきて、えらい顔して怒るんやんか。
それももう、怖いし嫌やねん。
お父ちゃん、迎えに来てや。
生きてたときは、もうちょっと優しかったやん。
不幸なことばっかり、ぎょうさんぎょうさん並べてたら、うちはちゃんとみんなみたいに可哀想な人間に見えるやろか。
お父ちゃんは悲しまはるやろか。
あの人も、怒らはるやろか。
姑はある日ぽっくり逝ってしもたのに、なんでお父ちゃんはあないにしんどい思いして死ななあかんかったんやろか。
うちかてな、死ぬ間際にこんなことばっかり言いとないねやで。
せやけど、ほな、言わへんかったら全部無かったことになるんやろか。
しあわせやった、楽しいかった、そんなん言うてもほんまの気持ちやあらしまへんねや。
哀しかった、痛かったて言い続けな、みんなうちのこと思い出してくれへんような気がするんや。
うち、死んでも生きてるためには、壮絶なことを何遍も言わな、あかん気がしてるねん。
残らへんやろ。うちが生きてたいうこと。
「……もうええで。疲れたんやろ。帰っておいない。かしわやのうて、お母ちゃんにすき焼きでも作ってもらお。お父ちゃん、待ってるさかい。」
せやな、おおきにな。もう帰るわ。
ようけ歩いたさかい、帰りははよ帰りたいわ。はよ帰りたい。はよ帰りたい。お母ちゃんが「帰ったら、豆大福あるえ」言うてはったし、硬となる前に、はよ帰るわ。
少しずつ破れて見苦しくなってきたストッキングも、かかとがすり減ったパンプスも、もう全部ほってしまいたいわ。もう歩きとない。ずっとそう思てた。
せやさかい、あの人にはうちかて困りますねや。
よう泣かはって、たいそうに。
おおきにね、また会いに来てんか。
うちそろそろ、帰りますさかいに。
京都に住んでた祖母は、まだ若かったのだけど私が大学生の時に脳の病気で倒れて以来寝たきりになり、5年ほどの長い闘病の末亡くなってしまいました。
おとなしくて京言葉の似合う、おしとやかな祖母だったのだけど、日に日に認知症が進み、母や叔母、私のことが分からなくなったり、「帰りたい」と夜中に叫んでヘルパーさんを困らせたり、強い力や言葉で誰かをたじろがせたりと別人のようになってしまいました。
かつては、自分の話なんてあまりしないタイプだったのに、たまに体の調子が良いときは、昔あった悲しいことや辛いこと、自分語りをペラペラと話してくれるようになって。
……決まって最後には「なんも良いことのない人生やった。」と吐き捨てるように言うので、母とともになんだかやるせのない気持ちになったものです。
私にとっては、初めて聞くような話ばかりで、老人ホームに顔を見に行くたびに、「今日はどんな話を聞かされるんだろう」ってビクビクしてた。
でも、祖母が娘だったときの話、つまり両親や兄弟の話をするときは、ベースは毎回悲劇なのだけどなんだかとてもイキイキしていて……。
きっと、本当に「帰りたかった」んだなって思って、この話を京都弁で書いてみました。
支離滅裂だけど、認知症が進んだ祖母の話し方を思い出しながら書いたらこんな風になってしまいました。
祖母が亡くなった直後、祖父は私たちに「祖母との楽しかった話」を話してくれるようになりました。
生前、繰り出される祖母の悲しい話を横で聞いていて、祖父はもっとやりきれない気持ちだったのだろうな。
祖父の話す祖母は、いつも笑ってる明るいおばちゃんが浮かぶ、色にするとピンクや黄色の柔らかいイメージ。
でもあのとき、マシンガンのように悲劇を繰り出す祖母に、一切「楽しかった話」で横槍を入れなかったのは、祖母のことを思ってだったのかなって。
#磨け感情解像度 、書けないなー書くことないなーと思っていましたが、なんだか寝て起きて、「これ書こう!」と思いました。
方言で書くのは正直な気持ちが出やすいし、楽しかった。
今日は久しぶりに、実家に帰ります。
以下、一応標準語で書き足しておきます。
なんかさ…野暮かなとも思ったんだけど、一応…せっかく書いたしみんなに読んでもらいたいなあと思って…!
標準語と京都弁の異なりも、よければ味わっていただけるとよいな。
右目が開かなくなってしまったのは、誰かの投げた石が当たってしまったからだったんだってね。
お父さんは足が悪かったから、戦争に行かなくて済んだけど、よくご近所の方に石を投げられていたって、お父さんが死んでしまう少し前に、お母さんに聞いたよ。
「非国民だ」って、馬鹿みたいだね。
「仕事で機械の操縦を間違えてしまった」だなんて、子どもに嘘を教えたらダメじゃない。
「だから、お前たちを疎開させて良かったんだよ。このぐらいですんだ。誰も死ななくてすんだ。」
そんなこと言って、お父さんは笑うけどさ。
一緒に米原(滋賀県の東部)から帰ってきた妹のよっちゃんと、「お父さんの目が、開かなくなってしまった」って、ぐずぐず、たくさん泣いたんだよ。
仕事の事故じゃなかったんだね。
石を投げられていたんだね。
私は、お父さんに石を投げた人なんて、早く死んじゃえって思っちゃったよ。
もうすでに亡くなっているかもしれないから、今更だけどさ。
お父さんの右目になってあげなくちゃ!って、私、疎開から帰ってきたとき、思ってたんだよ。
私、ちゃんと右目になれていたかな。
「……」
鶏肉は嫌いだった。
疎開先の米原の凍った川で、よっちゃんと鳥を捕まえて、捌いて焼いて、気持ち悪いねって言いながら食べたのを思い出してしまうから。
だけど、お父さんはきっと、私たちがそんなことをしていたって知ると悲しむだろうから、言えなかったよ。
兄貴は東京に行ってすぐに病気で死んでしまったし、弟は借金を作ってどうにもならなくなってしまい、お父さんは大事なものを全部手放さないといけなくなったね。
朝鮮人と駆け落ちをしてしまったよっちゃんのことを、結局は探せなかったうちに、お父さんは死んでしまった。
お父さんが縁立ててくれたあの人は、貧乏だけど良い人だったよ。だけど、姑にはひどくいじめられてしまって、お父さんのことを少し恨んでしまったこともあった。
富美子と多美子……もう、どっちがどっちだか、よくわからなくなってしまったんだけど、あの子たちにも可哀想な思いをさせていてしまってたかもしれない。
「……なんだおまえ、『しまった」ばかりじゃないか。そんなに悪いことばかりの人生でも無かっただろ。」
そんなことないよ。
良いことの方がきっと少ない人生だった。
今日だって、体を拭いてくれていた子に、酷いことを言ってしまった。
あの人にも。
富美子と多美子も、もうどっちが来てくれたかわからない。
お父さん、もう私疲れたよ。
何にも、一つもいいことないよ。
優しくなれないの。
口から全部出てくるようになってしまった。
「死んでしまいたいな」って、吐き出すように言ってしまった日は、毎日夢にお父さんが出てきて、ひどい顔して怒るんだよ。
それももう、怖いし嫌なの。
お父さん、迎えにきてよ。
生きていたときは、もう少し優しかったじゃない。
不幸なことばかりを、たくさんたくさん並べていたら、私はちゃんとみんなみたいに可哀想な人間に見えるかな。
お父さんは悲しむかな。
あの人も、怒るかな。
姑はある日ぽっくり逝っちゃったのに、なぜお父さんはあんなにつらい思いをして死なないといけなかったんだろう。
私だって、死ぬ間際にこんなことばかり言いたくないんだよ。
だけど、じゃあ、言わなかったら全部無かったことになるのかな?
しあわせだった、楽しかった、そんなこと言っても、本当の気持ちじゃないの。
哀しかった、痛かったって言い続けないと、みんながわたしのことを思い出してくれないような気がするんだ。
わたし、死んでも生きてるためには、壮絶なことを何度も言わないといけない気がしているの。
残らないでしょ。私が生きていたこと。
「……もう大丈夫だよ。疲れたんだろう。帰っておいで。鶏肉じゃなくて、お母さんにすき焼きでも作ってもらおうか。お父さん、待ってるからな。」
そうでしょ、ありがとう。もう帰るね。
たくさん歩いたから、帰りは早く帰りたいな。
早く帰りたい。早く帰りたい。
お母さんが、「帰ったら、豆大福があるよ」って言ってたし、硬くなる前に早く帰るね。
少しずつ破れて見苦しくなってきたストッキングも、かかとがすり減ったパンプスも、もう全部捨ててしまいたい。もう歩きたくない。ずっとそう思っていた。
だからさ、あの人には私だって困るの。
よく泣いてさ、大げさに。
ありがとうね、また会いにきてよ。
私はそろそろ、帰りますから。
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