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空とネコ

オレンジ色のカーブミラーの真下、田舎特有の煙った匂い、家々を線結ぶ郵便バイクの音が響く、昼間の住宅街。
地面に倒れ込んだ躰をイタタと起こすと、なんと、白い猫になっていました。
カーブミラーと同じ色の小花が低木に咲き乱れて芳しい、十月の午後三時のことでした。




先ほど、愛した男にとどめをさしました。
そうせずにはいられなかったのです。
お昼ご飯に温かいきつね饂飩を作ってあげました。
あなたはそういう人だから、お揚げを最初に食べ、ネギを残します。
私は、麺を食べ終えてから、味の染みたお揚げを食べるのです。
凶器を取り出しました。
臓器に届くぐらい強く早く、今すぐしっかり息の根を止めてあげられるように、とどめは重く、深く。
手が震えました。息が出来ませんでした。
彼の表情は脅えを露わにしながら固まってしまいました。
顔色もみるみると変わり、どくどくと色々なものが流れ、あっという間に崩れました。
急いで彼の家を飛び出し、ーー-扉は莫迦丁寧にゆっくり閉めて、走って走って走りました。
知りません。知りません。
走って走って、走ったのです。


その時、同じく南から走ってきた、白くて柔らかい獣とぶつかりました。
それが猫でした。


私はどうやら、先ほどぶつかった猫と、入れ替わってしまったようです。

ハッと見上げると、私の躰はこちらに会釈し、踵を返してゆっくりと去ってしまいました。
不思議と、ひどく冷静でした。


🌾

しばらく、猫の姿でひだまりに身を委ねていました。
耳や鼻は敏く、四肢もしなやか、舌はなんでも絡め取ってしまえるのではないかというほど、細くて器用で人間よりもずぅっとザラザラとしています。


ーーーそうだ。

先ほどとどめをさしたばかりの男の家に行ってみることにしました。
この躰ではドアノブに到底届かないと予想できたので、開け放たれたベランダから覗いてみることにしました。
ひどく心に障る臭いがしましたが、私が昨夜、何かをまじなうように焚いたお香の余韻です。
男は先ほどと同じ場所に横たわっているようでした。
死んでしまったのでしょうか。
部屋に差し込む傾きかけている西日が赤くて、眩しくて、人影しか見えません。


一般的な猫の鳴き声とは、どのようなものでしょうか。
「……にゃー。」
男の名を呼ぼうとしたら、勝手に口から普遍的な鳴き声が出でました。
愛が混ざっていたのでしょうか、思いの外、甘く馨しい声が、吐息を孕んで、空を翔く綿毛のように漏れました。
発した声の甘美さに、自身で身が震えてしまうほどに。


その時、この家の扉が開いた音がしたのです。
知らない女でした。



「ちょっと、鍵空いてんじゃん。あれ、寝てんの?来たよ。」

死んだんじゃないかと思っていた男の体が、ゆっくりと起き上がりました。

「ん、寝てた。なんかね、ばれちゃってたみたいだわ。」

「私との関係が?」

「ううん、それもかもしれないけど、それより、もうこっちに気持ちが無いこと。」

「そっか。」


彼と彼女は、嬉しげに見つめあった後、しばし抱き合い、キスを始めました。
鳥が餌箱を突くような、短くて、アレグロで、クレッシェンドです。
彼がベランダの窓を閉めるために立ち上がりました。
私は見つかってしまうことを恐れ、慌てて、ぴょいと隣の部屋の領域に飛び移りました。

(猫いたわ。)(ふふふ。)

小さくそのように聞こえたあとは、何やら二つの幸せそうな笑い声がこだまし、やがて何も聞こえなくなりました。

私がとどめをさしたのは、恋人関係という、形式でしかなかった壊れかけの脆い鎖でした。
でした。


仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実 不虚故 説般若波羅蜜多咒 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧莎訶
般若心経


気がついたら、自分の部屋の布団の中にいました。
躰は猫のものではなくなっていました。
なんだったっけ。
ぜんぶ、忘れてしまいました。
猫になってよかったです。

空っぽだけが残りましたが、今日も風が心地よい、良い天気の日でした。
明日からも頑張ろうって思いました。

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今回、第三回教養のエチュード賞に応募してみることにいたしました。

嶋津さん、はじめまして〜。

今回の作品は、「肉体を離れたところ、つまり精神で真理を知り、空(無)に気づく」。
般若心経の教えを、失恋のシーンにのせて表現してみました。

本当は、般若心経に出てくる漢字を全部使ってこの物語を表現しようと思ったんですが(何考えてんねん)、それよりも、自身で得意な表現であると感じている、生活感あふれる言葉遣いの方が気持ちを乗せやすかったのでこのようにしました。
猫になれたらいいのな、悲しい時は。

楽しかった〜。
般若心経ってぎゃあていぎゃあてい、良いですよね☺︎(何が)

初めて参加できて、大変光栄です☺️
せっかく参加できたからには、この企画を存分に楽しみたい所存です。
以後、よろしくお願いいたします。



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ささいな笹
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