京都の厄介
10年ほど前。京都に住んでいた祖父と市バスが来るのをを待っていたときに、驚いたことがあった。
「おう、あんたら、どこ行きたいねんな」
同じくバス停にいた、ここらで見慣れない制服を来た可愛い修学旅行生の群れに、急にフランクに話しかけるのである。
「はい、これから錦市場に行こうと思っています」
可愛い修学旅行生が元気に答えてくれる。うんうん。それなら今から来るバスはどれに乗っても近くに行くから大丈夫だ。慣れない土地で子どもたちだけで行動するって、緊張するよね。
なのに、その不安な気持ちをわざと煽ろうとしてるのか?うちのじいさんと来たら、こうだ。
「ほんなら、201か203か32番か65か乗って、四条高倉か河原町かどっちかで降りはったら、ねきに(近くに)着くわ。大丸(デパート)の方から(錦市場に)入りたいんやったら、高倉。京極も見たいやろ?せやったら、河原町でおりて、あがりよし。おみやげもようけ置いたぁるさかい、買うてかえらはったらええわ。ほな気ぃつけて(めっちゃ早口)」
「???????」
慣れない土地のバス停でコテコテの京都弁で繰り出される、よきせぬ情報量。修学旅行生もびっくりしている様子。そりゃそうである。急に喋りかけてきた老人が、何やら訳のわからんバスの数字と、馴染みのない地名を繰り出す。迷惑である。修学旅行生に「どこから来た」とか「どこを見てきた」などと会話を広げるでもなく、言いたいことだけを矢継ぎ早に言って、会話を終了するのである。
「あの、混乱させましたよね…次に来たバスに乗って、四条河原町で降りると歩いてすぐです。ごめんなさいね…」
大学生のお姉さんだった私は、修学旅行生にそう付け加えて、祖父と次に来たバスに乗り込んだ。修学旅行生たちも私たちの後に続き同じバスに乗り、「四条河原町」で降りていったから、安心した。楽しそうな後ろ姿は、あのあと何を見て、どんな思い出を持ち帰って、今はどのような大人になっているのだろうか。
そして、一抹の不安。京都に住んでるうちのじいさんは、あんな調子で観光客に話しかけているのだろうか……。
「なあ、あんなにたくさんいらんこと言うたら、慣れないところに来たのに混乱しはるやろ!」
バスを降りたあとに祖父を叱ると、「へへっ、ええ勉強にならはったやろ」と笑ってた。こいつ。孫に怒られて、嬉しそうにしてるんじゃねえ。ナチュラルボーンいけず京男かよ。こう書くと、祖父はかーなりいやなやつだが、違う角度からポジティブに見ると、「観光客にフランクで親切」ともギリギリ受け取れなくもないから、ややこしい。
うちのじいさんのみならず、京都の人ってめんどくさいなと思い出したのは、四年前に京都に住み出してから。いささか主語がでかいので、もちろん全ての人がそうではないのだが、京都の人は根本的に、他人に関心がなさそう。個人的なことを聞くだけきいて、あとは自分が言いたいことだけをぶわっと並べて、「あとは好きにとってください、これがうちのあげられる全てですわ」と風呂敷を広げて、他者に選択を委ねてくる方が多い気がしている。恐らく、態度を表にだして、付き合ってくれる人とくれない人を分別している。
京都人は、いけず。やなやつ。プライドが高い。そんな文脈はずっと前から語られているけれど、最近は特に、「京都のタクシードライバーはクソ」とSNSで話題にされているのをよく目にする。主語でかい。いいドライバーさんもたくさんいる。だけど、頻繁に話題になるぐらいなので、クソドライバーはかなりの数存在するのだ。許せない。公共交通機関ならまだしも、高いお金を払うことを前提に乗るのに、そんな仕打ちってないよなあ。
よく語られるクソドライバーの特徴は、こんな感じ。
・ほんまはあんたみたいなしぶい客より、沢山走らせて、沢山払ってくれる外国人観光客を乗せたいのに…などと客本人に文句を言う
・「こんなことも知らずに、京都に来はったの?」と言わんばかりの上から目線
・客や交通状況などに舌打ち、ため息、悪口などで感情を態度に出す
・運転が荒い
・求めていないのに、「ここが山村紅葉の生家です」とか言って、いらん回り道をする(実話)
などなど。当然、そんなドライバーにあたったお客さんは怒る。京都に住む私ですら、絶対にタクシーを降りたあとに会社にクレームを入れたり、「ここで降ろしてください」って言う。腹の虫がおさまらなくて、コンビニでやけ酒する用のお酒を買ったり、サンドバッグにハイキックを入れたりするかもしれない。高いお金を払うのに、本当に理不尽すぎてムカつく。旅先ならば、街ごと嫌いになるかもしれない。
ただ、ここ京都において考えると、今までの傾向と経験を顧みるに、しち面倒くさいことに京都の人はこんなところでも、正直にさらけ出しすぎているのかもしれない。客側から踏み込んで聞かれるのを期待して、こちらに甘えている。反応を楽しんでいる。いや、客が怒ってこないギリギリのラインを綱渡りして、面白がっているのかもしれない。
例えば、
「あんたよりも、外国人を乗せたい」。
これは、お客さん相手に商売をしている人が発する言葉として信じられないけれど、「普段から外国人観光客が多くて、日本語が通じるお客さんは久しぶりやわ。あんた、話聞いてくれそうやな。ちょっと喋らせてーな。聞いてーな。外国人てな、金払いええねん。あんたそんなん知らんやろ、すごいやろ、お客さんなんて珍しいもんやないねん。京都すごいやろ?びっくりするやろ?」の裏返しなのかもしれない。嫌味という名の餌に見栄と自慢を混ぜ込んで竿につけ、視界の邪魔な位置に垂らして、こちらが受け入れるかどうか、反応を見ている。
怒っていい。嫌悪感を抱いたなら、怒っていい。怒っていいよ、ほんと。お客として旅に来ているのに、こんな理不尽ないよ。
ただ、そんなことに旅のテンションを左右されるのは腹がたつから、不可解な人と出会ったら、怒るだけでなくて、「もしかしたら、発言の意図にはこういう背景があるのかな」と言外の意味に想像を膨らまし、旅に来た感慨にふけるのを楽しみ方の一つに加えると、旅にもう一つの奥行きが出るかもしれない。そう、スリの多い街で自衛をするように、腹下しが多い海外で下痢止めを持ち歩くように……。
🍵🍵🍵
京都は今、観光のお客さんが戻ってきている。国内外問わず、たくさんの方が行き交っており、道路も渋滞している。家の窓を開けていると、スーツケースを転がす音や外国語もよく聞こえてくる。コロナ禍ですっかり忘れていたけれど、ここは外の人との距離が近い街。外の人がたくさんくるからこそ、古くからのものが残る街を守らなきゃいけない。
京都に住むものとして、京都に遊びに来たひとが意地悪な人に当たって、嫌な思いをした経験を聞くと悲しくなるし、そんな思いをさせた人に心底腹が立つ。京都での思い出が、人の態度に傷ついた心の波音でかき消されるのはもったいない。他所から来てくれた人に対しての、その土地に生きる人の傲慢な思いやりのない態度は、同じ土地に生きるものとして非難したい。
しかし、違う地域や文化圏を旅をしていると、明らかに自分とは違う価値観と出会うこともある。刺激にもなるし、人との違いに気づくことで、自分のアイデンティティを確立するきっかけにもなる。日本は狭いけれど、細分化されている。お客さんとしてその土地のおもてなしを享受するのも旅の醍醐味だけれど、旅には自分を知るきっかけや、違う文化を学ぶ契機も転がっている。嫌な思い、危険な思いはしたくないけれど、マイナスな経験がもたらす作用のプラスな可能性も忘れたくないな。
一例に過ぎない、しかもまとまらない考えだけれども、私が住んで感じた、「もしかしたら京都の人ってこうかもしれない!」という、一つの視点のお話でした。なんにせよ、楽しんで帰ってほしいな。京都で嫌な思いをしたら、私に教えてほしい。ここで暮らす上での、京都人のサンプルにしようと思う。この街は、良くも悪くも、住むと間違いなく面白いです。ただ、「この街が好き」とは、まだ言いきれない。