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ep.3 動物のあたりまえと人のあたりまえの話

はじめに

どうも、最近念願のクソデカイカ天を食べれてにっこにこのすらんでございます。マヨ七味つけたらめっちゃうまい。

さて、今回のテーマは「動物のあたりまえと人のあたりまえ」です。
なんか難しそうな話ですが、難しいことを考える頭を持っていないので多分単純な話です。

きっかけになった言葉

このテーマを得たのは、とある人にこう言われたのがきっかけです。

動物は目の前にいる動物が足一本無かろうとなにも思っていないし、そもそも四本あるのがあたりまえだとも思ってないと思う」。

目から鱗でした。
私も動物は足や手があろうが無かろうが、そんなこと気にしていないと思っていました。
けれど、そもそも自分自身で足が四本、昆虫なら六本や八本あるのがあたりまえとも思っていない、なんてことは考えもつかなかったことで、とてもハッとさせられました。

動物にあたりまえって存在するの?

そこから私は、そもそも動物に「あたりまえ」って価値観は存在するのだろうか、と感じ始めました。
もちろん、生存するために食べたり寝たりすることは当然のことではありますが、あたりまえというよりももった深いところにある生存本能であるのではないだろうか。じゃあ、あたりまえってなに?ってどんどんわからなくなってきました。

ネットで調べるところによると

あたり‐まえ〔‐まへ〕【当(た)り前】 の解説
[名・形動]《「当然 (とうぜん) 」の当て字「当前」を訓読みにして生まれた語》
1 そうあるべきこと。そうすべきこと。また、そのさま。「怒って―だ」

2 普通のこと。ありふれていること。また、そのさま。並み。ありきたり。「ごく―の人間」「―の出来」

goo辞典
https://dictionary.goo.ne.jp/

とのこと。この場合は2の「普通のこと」が当てはまりますね。
じゃあ普通ってなんでしょう。そもそも彼らに普通という概念は存在するのでしょうか

私の思う答えはいいえです。私たちが決める彼らの普通はあろうと、彼らにとっての、彼ら自身が思う普通って存在しないのではないでしょうか。

コミュニケーションを取っている相手が、片足無くても、オッドアイであっても、目が見えてなくても、耳が聞こえてなくても、うまく声が出せなくても、なんであっても彼らは気にしないし、自身も全く気にしていない。

なにか障害や特殊な特徴を持っていても持っていなくても、そんなことよりみんな1日1日を生きることに必死になっている。

これってすごく素敵なことじゃないですか?

なんで人間はあたりまえがあるのだろう

じゃあなんで人間には「あたりまえ」や「普通」が存在するのでしょう。

それが人を苦しめることも多々あると思います。
しかも動物から学べるように、あたりまえの概念は生存に不可欠どころか、必要のないものでもあります。

それでも「あたりまえ」がなくならない人間社会
それはきっと人間が作り出した、社会的欲求の一部なのかなと思います。
自身が大多数と同じであることで間違っていないことを証明され、安心できるのかなと。
あくまで私の考えですが。

しかしそれでも私は、「あたりまえ」が存在しない動物社会の方が暮らしやすそうに思います。
もちろん、辞典にあった「そうするべきこと」という意味での「あたりまえ」は必要だと思います。
ただし、「普通のこと」という、定義がはっきりしていない意味での「あたりまえ」からは解き放たれてもいいのではないでしょうか。

さいごに

最近では、マイノリティという言葉も浸透してきて、だんだん「あたりまえ」の形が崩れてきているように思います。
男性が男性を好きでも、車椅子ユーザーでも、白杖を使っていても、社会が彼らに寄っていくとともに、悪い意味で特別視する視線も薄れている印象です。

だから案外私たちが思っている「あたりまえ」って脆いものなのかなって。
社会環境が変わってしまえば、わたしたちの認識もそれについていく。わたしたちの「あたりまえ」が変わっていく。

だから例えば、車椅子を使っている人のためにスロープを作る「あたりまえ」は続いていっても、”車椅子に乗っているから”優しくしないとね、なんて、第一印象で決めつけて判断してしまう「あたりまえ」は無くなればいいなと思います。
車椅子に乗っていようがいまいが、人に優しくするのは「あたりまえ」なんだから。

とまあ、私の中にも「あたりまえ」という概念が鎮座したまま動こうとしないので、人間が「あたりまえ」から解放されるのはまだまだ先になるかもしれませんね。

そんなことを動物から学んだ話でした。
最後まで読んでくださってありがとうございました!

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