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SF読書交換日記 第3回 ルーシャス・シェパード「竜のグリオールに絵を描いた男」

あまりにも巨大な竜、グリオール。その肉体は活動をやめて久しく、今ではそこに川が流れ、木々が生い茂り、そして人々の生活の場となっていた。しかし、グリオールの精神は未だ健在であり、人間を含めた周囲の生命すべての意思を支配し、自身の周囲に束縛していた。そのグリオールに完全な引導を渡すべく、一人の男が名乗りをあげた。曰く、グリオールの体表に絵を描き、絵の具の毒をもって殺すのだ、と……。

今回この作品を読み直して、俺はファンタジー世界で大きなことを成す、という小説が好きだ、ということに気づいた。キジ・ジョンスン「霧に橋を架ける」はまさにその好例で、テッド・チャン「バビロンの塔」、あと傾向は変わるがジョージ・R・R・マーティン「夜明けとともに霧は沈み」あたりも自分の中では同じフォルダに格納されていた。まあ、デカブツと工学が好きなだけ、と言われてしまったらそこまでなのだが。

とはいえ、ただデカいものを異世界でいじくりさえすれば楽しくなるというわけではなく、人々の暮らしを語り手の目線から丹念に描くことで自然とその世界の風貌が見えてきて、人々の日常の生活を土台としつついかにも非日常的なデカいガジェットが登場するからこそ、ワクワク感が出てくるんだよな、とも思う。キース・ロバーツ『パヴァーヌ』はまさにこのタイプだった。

作中世界は現実世界と違うので、その日常生活を描くだけで既に作中世界が現実世界といかに異なっているかという説明になる作品があって、そういうタイプの作品も好きだ。言い換えれば、作中世界の論理がそのまま語りを規定していて、語りの不自然さから逆算すると世界が必要十分に説明されるタイプの洗練された作品。グレッグ・イーガンの作品は「ビット・プレイヤー」をはじめほとんどがこの特徴によく当てはまっていて、「オムファロス」をはじめとするチャン作品もそうだし、国内に目を向けると星新一、筒井康隆の一部作品や、伴名練、円城塔の作品がもろに該当する。そして時代を逆行していくと、ティプトリーとかバラードあたりに到達する。結局、何かしら論理が通った技巧的で洗練された作品が好きらしいということになってくるかもしれない。(SFから外れて先の特徴を求めていくと、マジック・リアリズムやラプラタ幻想文学に行き着く。)

で、この「グリオール」が先に挙げた特徴に該当するかというと微妙にそうではない気もするのだが、少なくともグリオールを殺そうとした主人公メリックもグリオールの精神支配下にあるはずであり、そのメリックがグリオールを殺し得たことすらグリオールの意思の現れだったはずで。ここに自己言及を読み取って、このネタ恒例の不信感に悩まされることまで含めてこの作品を楽しむということなのではないかと思っている。ここまで論理論理言っておきながら自分の文章の論理が破茶滅茶になりつつあるが、とにかく“ルーシャス“”シェパード”という響きが下手な深読みを誘ったのではないと信じている。あるいは、これもグリオールの影響なのか。

元々、“ハードSFから離れて気楽に書け”ということだったのに、結構力を入れて書いてしまった。それだけ楽しく読んだのだが。あと書き忘れてたのでここに無理矢理書き加えておくと、日常生活をひたすら描いているだけの作品も好き。樫木拓人『ハクメイとミコチ』とか、九井諒子の作品とか。「グリオール」に出てきた描写だと、鱗狩人がグリオールの鱗に刻んで作った階段が好き。

こうして色々と考えてみると、SFを自覚して読むようになるまでは、ファンタジー小説に囲まれていたように思う。おぼろげな記憶をたどってみると、『デルトラ・クエスト』であるとか、『マジック・ツリー・ハウス』という懐かしい書名が浮かんでくる。いい機会だし、ファンタジーの方も久しぶりに読んでみようかと思う。もしいいのを知ってたら教えてください。なるべく、大長編とかじゃない、せいぜい単巻ものとか短篇とかでお願いします。


さて、一周したことで初期参加者3人に対して平等にバトンを回したことになる。ちょうど区切りがついたところで、この交換日記に新たに戸山と春尋の2人が合流したので早速担当してもらおうと思う。担当者は春尋、課題作は藤井太洋「おうむの夢と操り人形」(創元SF文庫、年刊SF傑作選『おうむの夢と操り人形』表題作)。多分、こういう技術メインのSFが好みなのではないかと思うのだけど、どうだろう。既に俺が盛大に遅らせたあとなので、締切とかは気にせず気軽にどうぞ。感想を楽しみに待ってます。

(下村思游)


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