渇きと望みの違い
「水を飲みたい」
この感情は渇きだ。
そうせざるを得ないと感じる、本能的なもの。
さっきまでそうでは無かったのに、ふと湧き出てきて、以降喉が潤うまで消えない呪いにも似た感情。
これが生じることは個人の意志ではどうしようもなく、本来誰もこれを責めることは出来ない。
けれど社会は本能を嫌い、渇きを束縛する。
今は授業中で水を飲んではいけない時間だから、この水は他の人が口をつけたものだから、水を飲むと山頂まで持たないから、この水には毒素が含まれているから。
だから飲んではいけません、と。
他と違って人は社会性を重んじる賢い動物だから、そういう情報を脳で処理して、「安全な水を飲んでも良い時間が欲しい」というように、渇きを望みに無意識に変換している。
ようは我慢している。
なんだってそうだ。
「自由に歩きたい」という渇きの感情を我慢して、「青信号になってほしい」と考えている。
「おしっこをしたい」という渇きの感情を、「トイレに行きたい」と変換している。
この変換は大抵は上手くいく。
しかしそうでない場合がいくつかある。
夫と妻で、子どもを作ることに対する感情に差がある場合はその一つである。
お互いの渇きが、望みが衝突する。
「子どもが欲しい」という感情は大抵の場合、理由のない渇きだ。
後付けで欲しい理由を並べることはできても、子どもが欲しい人にとって、何を置いても子どもを作らないという選択肢は存在しない。
子どもが出来るか完全に諦めがつくか自分を洗脳するかするまで、子どもへの渇きは消えない。
「子どもが欲しくない」という感情はどうか。
これには、渇きの場合と、望みの場合があるように思う。
つまり、子どものいない夫婦生活を最上の幸せと自ら定義している、あるいは、子どもが欲しいと思ったことがないなら前者。
何かきっかけがあって子どもが欲しくないと思ったなら後者と予想できる。
経済的な不安、産みの不安、子育ての不安、責任の不安、これらは実の所、子どもには一切関係がない。
いうなれば、自分と自分の好きな人の特徴を半々で持つ存在が、自分と自分の好きな人に笑いかけてくるというコンテンツを愛おしいと思うかどうかが、「子どもが欲しい」と思うかどうかの根源的な問いである。
といっても、人は社会的な動物であり、頭脳によって危険を予測する動物。
「子どもが欲しい」という問いは、様々な不安要素と共に、半ば自動的に、「子どもを育てること」をセットにして考えることを強制されている。
まさかまさか、子どもを産んだけど気に入らないから捨~てよ♪なんていう選択肢は、社会通念上認められないからだ。
とはいえ、実際にここが文明社会でなければ、倫理観を刷り込まれることも無く、ならば子どもを捨てるというのは当然に親が選択可能な行動である。
通常の価値観では子どもが欲しくないと思っているが、最悪子どもを捨てても良いことを選択肢に入れられるとした上でなら子どもが欲しいと言えるなら、それは逆説的に、人を守るために築かれたはずの文明社会によって我が子を先んじて殺されたということになりうる。
それでは、「子どもが欲しい」という本来の渇きが、「諸々の不安のため子どもは作らずに豊かになりたい」というずれた望みとして発現していることになる。
これは大変にもったいないというか、個人的には本末転倒に思える次第である。
結局何が言いたいかというと、自己責任論でギチギチな現代で子どもが欲しくないと思うこと自体は別に何もおかしくない自然な感情の一つで、むしろ社会的な思考でさえあるということ。
それはそうと、その手のすべての社会性から解放されたときに自分が欲しいものを考えることが、重大な決断の最終答のヒントになるかもしれないこと。
文明社会は使い方次第で利益も損益ももたらす。
その中で不安を取り除き、社会を渡り歩き、渇きを叶えることこそ人の本懐であり、それを社会のために安易に譲ってやる必要はないと思う。
自分にとっての渇きは何か、しがらみに囚われずに思い出すのも悪くない。
人生はエゴ上等である。
解消できない不安が無数に存在することも人生だけどね!!!
若造の怪文御免!!!