2-03「陽の光もなく」
7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
前回はRen Hommaの【「真似」と「真似事」】です。今回は、S.Sugiuraの【陽の光もなく】です。それではお楽しみください!
【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e
【前回までの杣道】
2-01「座敷童の印」についての、覚書https://note.com/b_a_c_o_n/n/n625d32d6bc77?magazine_key=me545d5dc684e
2-01「「真似」と「真似事」
https://note.com/nulaff/n/nf508703a9fe8?magazine_key=me545d5dc684e
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...57、58、59、
分針が動く。
1、2、3、...
秒針が進んでゆく。
時計は規則正しく刻んでいくが、実際の時間は全く違う性質であるというのは古くから多くの哲学者によって語られてきた。
「瞬間のフロッタージュ」とも言えるこの時計は、1秒を刻むごとに本来の瞬間から何か抜け落ちたものがあるのだろう。
ある日、自分の部屋の時計の電池が切れていた。替えの電池を探したもののなく、時計が止まったまま数日を過ごしたことがある。部屋に入る光の動きで時を知る。それが1日を十分に楽しめる方法かと思った。一時期、友人の間で時計や携帯を持たずに出歩くというのが流行っていたが、出歩いても時刻はついてくるもので、部屋で籠もってただただ光と影の動きを見ていた方が純粋に時間を楽しめると思った。
瞬間のフロッタージュを重ねていったためにできた記憶…
街を歩けば私に出会うことがある。ガラスに映った現在の私、かつて好きだった菓子を見ることで思い出す幼い頃の私、ベンチに座り微睡んでいる杖をついた未来の私。それら私は瞬間のフロッタージュによって生まれた像なのかもしれない。しかしもし、そのフロッタージュが実は少しずつずれていて、元の図像と違ったら…そう思うと過去が、今が、未来が、そして私という存在が疑い深い物に思えてくる。ところでノスタルジアというのはかつては深刻な医学的疾患とされており、病気とされていた。特に兵士達がその「病」にかかることは戦意喪失と繋がるため排除すべしとされていた。しかしそのズレはノスタルジアを克服できるのではないか。ところでタルコフスキーの「ノスタルジア」ではロシアからやってきた主人公はイタリアにいるのだからイタリア語で話せというシーンがある。ただ翻訳というのは近似的であって、そのズレは彼にとってはロシアとイタリアの距離となりまた、そのノスタルジアによって想起されるイメージと現実の溝の深さとなる。そのズレは、実はそのフロッタージュが開始されたかつてへと意識をもっていき、更なる郷愁を誘うのかもしれない。ノスタルジアがノスタルジアを呼ぶ。
隔たり…
私は鏡の前にいた。左腕を上げる。右腕を上げる。右を向く。左を向く。笑う。笑う。目を瞑る。私は目を瞑っているのだろうか。
私は暗転された、螺旋状の縞模様が見える世界で鏡の前に立つ私の、背中からの姿を想像する。しかし、私は私の目で正しく背中を見たことないからそれは単なる背中らしい背中に過ぎない。手で背中に触れる。それでも私は私の背中をちゃんと把握できないし、暗闇に像が浮かび上がらない。いや、実は触れていないのではないか。私はちゃんと背中に触れているのか。私は実は偽の記憶の中で生きていて、瞬間のフロッタージュなどは存在しないのではないか。そう思った時にこの暗闇に初めて不安を覚えて目を開ける。
私は私だった。私は一筋の涙を右眼から流し、私は一筋の涙を左眼から流す。いや逆か。
...57、58、59、
分針が動く。
1、2、3、...
時が進んでゆく。
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次週は1/10(日)更新予定。担当者は屋上屋稔さんです。お楽しみに!