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【試読】lntroduction At Tokyo

「チョクリツエンジンです」
 宙を差してそう言われ、何のことだかまったくわからなかった。
「まっすぐ立つ猿人。直立猿人。いま流れている曲の邦題です」

 きいたこともない国に籍を置くその男は、今まで出会ってきたどんなルーツの人間とも雰囲気が違った。芝居がかっているように見えるが「トーキョーにはなんだか親しみを感じます」と人好きのする笑みを浮かべている。
 和モダンとでも言うべきか、黒を基調にした少々お上品な居酒屋を接待の場に選んだ。その店内でいま流れているのが直立猿人らしい。

「……ジャズ? がお好きなんですか?」
 意識しなければ耳に入ってこない、控えめな音量で流れる曲をどうにか聴き取る。地を這うような管楽器の旋律。

「はい。もともとはクラシックが好きで、交響楽団のサポーター会員だったのですが」
 出版社勤めにしては羽振りが良いな。同業でも、彼の国では盛況なのだろうか。羨ましい。

 どこでどうやって見つけてきたのか、うちのような小さな出版社が出している書籍の輸入・および訳書を出版させてほしいと彼のほうからコンタクトを取ってきた。弊社はとてもではないが繁盛しておらず、ビッグネームの作家の著書を扱っているわけでもない。出しているものは胸を張って良書だと言えるが、何がどう彼のお眼鏡にかなったのかわからなかった。

「我が国も島国で、ほとんどの国民は外国の土を踏む機会がありません。コッコーがちょっとアレで」
「国交がちょっとアレ」
「他国間での政治的な問題を抱えているわけではありません。誤解を恐れずに、不謹慎とも取れる言い方をすると、そういったドヒョーに上がることも難しいような小国でして」

 土俵という語彙を口にできる程度に彼の日本語は流暢だが、単語に対する手触りを伴っていない言葉は浮いて聞こえた。

「あまり外に開かれた国ではない、ということですか」
「開きたいという意思はあるんですが、まず、国としての認知度が世界的に低く──」

 継ぐべき言葉に迷ってしまったようなので、微笑みを浮かべてお猪口を軽く掲げる。彼も苦笑いを浮かべつつ、ぺこぺこと頭を下げながら乾杯をした。とても日本的な所作のように感じる。

「こうして海外出張が叶う人間もひと握りなんです。タイギを背負っているつもりはありませんが、国家では成し得ない文化の輸入出をしたいんです」
 割り箸を使い、醤油にわさびを溶かすのも手馴れている。タコのぶつ切りなどという、西欧圏の出身なら忌避するであろう肴を注文したのも彼だ。

「御社が発行している、きわめて内省的なエッセイや詩集に好感を抱きました。見過ごしてしまいそうな日々の小さな思考には共感できますし、日本でのリアルな暮らしや価値観が垣間見える。遠い国でも身近に思える人々がいるということに、言い表せられない嬉しさがあります」
「ありがとうございます。先生方もよろこびますよ」

 心があたたまる話をしているのに、BGMは直立猿人である。いちど意識したせいで耳についてしまい、起伏の少ないベースラインがにじり寄ってくる。やたらと歯切れのいいタコをわさび醤油で頂けば、鼻にツンときた。

「いい曲ですねえ」
 彼がしみじみと言う。私は適当な愛想笑いを浮かべる。悪い曲だとは思わないが「いい曲」という言葉が自分にはしっくりこない。怪しい。重い。

「ほんとうにジャズがお好きなんですね」
「まだまだビギナーなので、詳しくはありませんが」
「お好きなバンドとかいるんですか」
「little black dressです」

 彼が発した単語の中で、もっとも明瞭に響いた。
 白手袋をはめた手で、ガラスケースから取り出されたような存在感を纏って。

「バンド名はすべて小文字です。我が国ではお祝いのメッセージなど、区切りなく続いてほしい物事へのおまじないとして、文章のすべてを小文字にする風習があります」
「へえ、それはおもしろい」
「彼女たちは数年前にある曲で爆発的にヒットしまして。ステージに立つときは全員リトルブラックドレスを着て、ブロンドのウィッグを被るんです。ボーカルのスカーレットは地毛ですが。メンバーは好きな映画のヒロインの名前をゲーメーとして名乗っているんです。演奏するのも、映画音楽とジャズスタンダードが主ですね。運がよければオリジナルを聴けることも」
「なんだかお洒落なバンドですね」
「そうなんです。でも、お洒落でキュートでフェティッシュなだけではないんです」
 そこまで言ってないが。

「シニカルであり、ドラマティックであり……とにかく格好いいんですよ」
「へえ、聴いてみたいなあ」
「オセジではなく?」
「はい。私は自社商品を愛しているので、それに魅力を感じてくれている方が、他にどんなものがお好きなのか興味があります」
「そこまで仰ってくれるなら、CDをお持ちすればよかった」
「またの機会にお願いします」

 あたりさわりのない笑みを浮かべる。そのまま互いの国のカルチャーを話題に盛り上がり、好奇心を刺激されるひとときとなった。

「お酒を飲んだあとはラーメンなんです。理由も理屈もわかりませんが、シメのラーメンというやつです。ご一緒しませんか?」
 ほどよく陽気に酔ったまま店を出て、チェーンの中華料理店を差す。彼は赤みがかった顔で「シメノ・ラーメン?」と要領を得ない発音で復唱した。
「せっかくですが、明日は午前から他社との打ち合わせがありますので」
 言葉尻の濁し方が、やはり妙に日本的だ。ひとしきり挨拶と感謝を述べながら握手を交わし、その場で別れた。

 しかし、帰宅するにはまだ惜しい気分である。気持ちいい夜風が吹き、騒がしすぎず寂しすぎずの街をほろ酔いでそぞろ歩く。
 気まぐれに路地裏に歩を進めると、夜道で飴色にかがやくバーの看板があった。

 店名の横には「ジャズとお酒」とある。
 店内から重低音が漏れ聴こえ、このバーの主役は音楽だという気配を察する。常日頃、一見の店にふらりと入るということはしないのだが──ほとんど迷わずに扉を開いた。

 入店した瞬間、席を埋める常連たちが全員こちらを振り返る妄想が脳裏をよぎったが、先客はひとりもいなかった。細長い店内の最奥、スピーカーの前に腕を組んで佇んでいた眼鏡のおじさんが「いらっしゃい」と言いながらカウンターの内側に回る。

 テーブルがベタベタするチェーン店で900円のとんこつラーメンでも食べようと思っていたが、デカい音でジャズを流すバーで赤ワインとレーズンバターを注文している。スピーカーの脇には、サックスを持つ黒人の写真が刷られたレコードジャケットが立てかけられていた。おそらく、いま再生されているものだろう。

 客席の背面には、びっしりとレコードが収められた棚がある。数百枚、いや数千枚はありそうだ。
 わからないなりに「いい」と思える音に耳を傾けつつワインを舐める。酔いが深まってきたな、という頃合いにレコードの回転がとまった。

「なにかリクエストはございますか」
 品のいい声でたずねられ、反射的に「えっ」と返してしまう。なんとなく立ち寄っただけの門外漢で、知識はゼロなのでお任せいたします。そう答えるのが最もスマートなはずだったが、酒と肴のマリアージュでご機嫌になってしまった舌が勝手に発する。

「リトルブラックドレスという、ガールズジャズバンドを聴いてみたいのですが」
 いや、たぶんないですよね、へへへ、的な照れ隠しのだらしない笑みを浮かべる。
 しかし、マスターは黙って頷き、レコード棚から1枚のジャケットを引き抜いた。えっ、あるんだ。

 赤い口紅のキスマークが捺された、銀色のマイクだけを写したジャケットにタイポグラフィが踊る。
『little black dress Live At DLE』。DLEは地名かクラブ名だろうか。

「お客さん、ツウですね。開店して5年ほど経ちますが、はじめてリクエストされました」
 ついさっき存在を知ったばかりのバンドを口にしただけでツウと呼ばれ、勝手に気まずくなるが、話すと長くなる。「いやあ、それほどでも……」などと酔っ払いの返答をし、クラッカーにレーズンバターを乗せた。

 レコードに針が落とされる。
 食器のぶつかる音や客同士のささやきのあとで、拍手があがった。わずかな静寂を挟み、演奏が始まる。

 ピアノ、ドラム、それからウッドベース。素人には軽快で機嫌がいいということしかわからないが、たぶんそれで充分だ。クリスピーなリズムを刻み続けるドラムのうえで、ピアノがこれでもかと跳梁し、観客が歓声をあげる。
 ウッドベースのソロはスピーカー越しにも内臓に響き、マスターがニヤリと笑む。ツウではないのでなにがニヤリポイントなのかまったくわからないのだが、思わず口角が上がってしまう気持ちはわかる。ジャズクラブの暗がりの中、それぞれの顔に笑みをのぼらせている観客を想像した。
 1曲目の演奏が終わり、歓声と拍手が起こる。

 そういえばボーカルは? と思っているうちに、人々の轟音のような歓声が押し寄せてきた。
 やがて、くちびるの前に人差し指を立て、聞き分けのない子供達に向けるような「お静かに」の呼吸音がスピーカーから吹き抜ける。それだけで全身が粟立った。

 今にも砕け散りそうなウィスパーボイスに、ピアノのささやかな伴奏がつく。何度目かの爆裂な歓声が響き、すっとおさまる。
 鼓膜のすぐそばで歌われているこそばゆさに襲われ、今までに聴いたことのない声に慄いているうち、メンバーの誰かがカウントを取った。

 マリリン・モンロー主演『紳士は金髪がお好き』の劇中歌『Diamonds Are a Girl’s Best Friend』。
 艶かしさとパワフルさが、危うい均衡を保ちながら突き抜けていく。ジュエリーブランドを挙げ連ねるくだりで、別人が出てきたかのような覇気がボーカルに籠り、ロマンチックな恋愛をスパスパと切り捨てていった。

 酒のせいか音楽のせいか、妙に気分が高揚してくる。ジャケットのキスマークを凝視しながら、心中でつぶやいた。
 ──彼女たちは、何者なんだ?

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