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能登半島地震 石川災害ボランティアをして【ボラの流れレポ・思ったこと】
2024年5月に石川災害ボランティアに行ってきました。
このnoteでは、ボランティアに行くまでの流れや思い、現地の石川やベースキャンプ、実際のボランティアなどについて振り返って書いていきます。
筆者は被災地にゆかりがあるわけではなく、今回は「ただの1ボランティア」として参加しました。
そのため人によっては距離も感じ、不快に感じる書きぶりがあるかもしれません。
「能登半島地震」の章では東日本大震災にも触れています。
自分なりに思ったこと、感じたことを書き留めておきたいという考えからです。
能登半島地震
1月1日のその日は実家で恒例のゲーム大会をしている時でした。
座っていた私は揺れを感じ、同じく据わっていた家族と「地震?」と話していましたが、立っていた他の家族は気づいていませんでした。
その時に頭によぎったのは東日本大震災です。
当時ファストフード店でアルバイトをしていたときに、突然ふらっとしたのを思い出しました。
その時は「めまいかな?」と勘違いしていたのですが、帰宅後に震度3程度の揺れがあったこと、災害の状況を知りました。
家族で「また地震かな?」と話しながらも、東日本大震災を思い出し、近い将来に起こるかもしれない南海トラフ巨大地震を心配していました。
テレビをつけたら能登半島地震の臨時ニュースが流れていました。
お正月の団らんとしたムードは一変し、しばらくはみんなテレビを見て口を閉じていました。
このままゲーム大会を続けるのはなんだか不謹慎な気がして、でもやめたって現状は何も変わらないことはみんな分かっていて、なんとも言い難い空気が漂っていました。
ボランティア断念?その後
筆者はちょうど休みに入っていたため、災害ボランティアとして活動することが頭に浮かびました。
正直に言うと筆者は「ボランティア」を進んでやってきた人生ではありません。
なぜ今回はやろうと思ったのかというと、「退職して時間ができる」「ボランティアを通して自分自身の成長にもなりそう」という気持ちがあったからです。
もちろん現地の方の力になりたいという気持ちはありましたが、その思いだけで決意できたわけではありませんでした。
しかし当時は「個人のボランティアは控えてほしい」といった情報が多く、また筆者自身が災害ボランティア未経験のため、今行っても迷惑になると考えてやめました。
筆者の住んでいる周りでは、能登半島地震のニュースはだんだん減っていき、生活の中で見聞きすることはなくなっていきました。
ただ「石川の復興は遅れているらしい」といった情報を聞き、ある程度のライフラインが整ってきた今なら未経験の自分でも力になれるのではないかと考えました。
災害ボランティア
災害ボランティア事前登録
ボランティアに行くなら、個人ではなく、なるべく公的な組織のもとで現地の方の力になれるよう動きたいと考えて、石川県災害対策ボランティア本部公益財団法人 石川県県民ボランティアセンターで事前登録を行いました。
この事前登録をしておかないとボランティア日の予約が出来ません。
(予約無しではボランティアには参加できないようです)
活動の予約
事前登録したメールアドレスにボランティアの活動日が送られてくるので、都合のつく日を選んで予約をします。
大体次の一週間のボランティア活動予定が一週前に出ていました。
活動地域もいくつかあったのですが、筆者は「珠洲市」を選びました。
ボランティアには
・ボラバス型
・現地集合型
の2つがありました。
ボラバスはその名の通り、金沢駅やベースキャンプから出ているボランティアバスに乗って活動場所まで移動するタイプで、
現地集合型は自家用車などで活動場所に集まるタイプです。
ちなみに珠洲市はボラバス型のみの募集でした。
▽ボラバス型災害ボランティア募集
▽現地集合型災害ボランティア募集
ベースキャンプの予約
ボランティア活動場所へボラバスで移動するため、ボラバスの停留所でもあるベースキャンプに前泊、後泊することにしました。
ベースキャンプの予約は、災害ボランティア活動の予約とは別に泊まる日毎に行う必要があります。(当たり前ですがボランティア活動を行う方のみの宿泊です)
筆者が利用した日本航空学園・輪島ベースキャンプ(日本航空BC)は
・駐車場(能登空港)
・お風呂(日本航空大学)
・食堂(日本航空大学学食)
が利用できました。
ボランティア活動保険の加入
ボランティア活動を予約すると予約完了メールが届きますが、そのメールにボランティア活動保険のURLが貼ってあったのでそこから加入をしました。
ボランティア活動保険は単年度(年ではないので注意!)での加入のようです。
保険料は災害補償もつけて500円でした。
ボランティアの持ち物・用意
持ち物:
動きやすい服装、
防刃手袋、
マスク(防塵が望ましい)、
ご自身の食事・飲み物、
防寒着、
内履き(使い捨てスリッパ等)、
カッパ、
安全靴又は運動靴(お持ちであれば踏み抜き防止のインソール)、
防塵ゴーグル(あれば)、
保険証またはマイナンバーカード
※軽トラック等の車両の運転をお願いする場合があります。ご協力いただける方は運転免許証をお持ちください。
日本航空BCでは、
・学食(6時半〜8時半と18〜21時)
・空港の食堂(14時まで)
があるので食事には困らなさそうです。
筆者はボランティア活動中の昼飯と飲み物だけ持参しました。
(本当は朝夕ごはんも持っていきましたが学食をいただきました)
また日本航空BCではお風呂が無料で使えました。
・シャンプー
・コンディショナー
・洗顔
・ボディーソープ
・タオル
・ドライヤー
が用意してあり、とてもありがたかったです。
施設内は基本土足で移動できるので、スリッパはいりませんでした。
簡易ベッドとマットレス、厚めの毛布もテント内にあったため、掛ふとんの代わりとなるタオルケットがあれば今の時期はいいかもしれません。
ちなみにテント内(テントのある教室)は冷房は入ってないので、日の出てるときはちょっと暑かったのですが、夜は長ズボン&長袖のスウェットで肌寒いくらいでした。(5月後半)
筆者は防塵マスクが手に入りませんでしたが、ボランティアセンターで配布していたので問題ありませんでした。
(不織布マスクで活動してる方も多くいました)
他にもボランティアセンターには
・ゴーグル
・ヘルメット
・軍手
・防塵マスク
・飲み物(お茶や水、経口補水液など)
が用意されていました。
被災地を見て
西田幾多郎記念哲学館(かほく市)
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無料で入れる展望デッキのホワイトボードに「震災後温度差を感じるとき」というタイトルの書き込みがありました。
道の駅とぎ海街道(志賀町)
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道の駅に立ち寄ったら、震災による機器の傾きの張り紙がありました。
道の駅は短縮営業のようで16:00には閉まっていました。
驚いたのは、正直このあたりに来るまであまり震災の被害を感じてなかったことです。
筆者は福井方面から石川に入り、北に上がる形で(少し寄り道をしながら)ベースキャンプのある輪島市まで向かいましたが、志賀町の道の駅周りは人も車も十分にいて、コンビニも営業していました。
向かうまでの道にたまに段差や亀裂があったのですが、正直に言うと「田舎道でたまにある」程度の規模だったため、「多分震災の影響なんだろうなあ」と思いつつも、普段通りの生活に戻ってきているのだと安心していました。
だけどそんなことはありませんでした。
道の駅の傍らに白いコンテナが5つずつ、2列に並んでいたので、不思議に思っていると老夫婦がその一つのドアを開けて入って行きました。
ドアの横にあった赤いポストでそこが仮設住宅だということが分かりました。
さっきまで「震災から普段の生活に戻ってきた」と勝手に感じていた風景の中に、実は災害の影響が残っていたこと、それを自分は認識できてなかったこと(それほどまでに周りは普通に見えました)が、とても大きなショックでした。
能登地方の道路
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運転を続けていくと、道路の段差や亀裂もだんだんと田舎で見かける程度や頻度とは明らかに変わってきました。
能越自動車道
一番ショックを受けたのは、能越自動車道です。
片側のみ通行できましたが、ところどころ反対車線側に誘導され、自動車道とは思えない複雑なルートになっていました。
そのため徐行運転の標示が随所にありました。
工事車両や積み上げられたコンクリート片、道を区切る赤コーン、さっきまでとは比べ物にならない規模と頻度の道路の段差や亀裂、そして崩壊した反対車線
全てがまだまだ災害の恐ろしさを伝えるには十分すぎるほど残っていました。
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日本航空大学(ベースキャンプ)
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のと里山空港
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ベースキャンプ前泊
ボランティア活動前日の19時までのチェックインをすませ、施設を探検したあとに学食で夕ご飯を食べました。
災害ボランティアと思われる方の他に、航空大学の学生もいらっしゃり、元気な声で挨拶をしてくれたのが印象的でした。
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どうでもいいことですが、うどんのセットにご飯つくんだ・・・しかも茶碗が大きい・・・
お風呂は23時まで空いているようですが、早めの8時前に入りました。
食堂のトイレが使えるため勝手に水道が復旧したと思いこんでいましたが、別のところからホースで水や電気をひいてきており、浴室はホースだらけでした。
当たり前のように蛇口をひねっても水は出ず、大元のホースからいくつかの代理のシャワーヘッドに分岐させて使っていました。
そのためシャワーを二人以上が同時に使うと水圧が極端に弱くなりました。
シャンプーを使ってお湯で洗うことになぜだか罪悪感を覚えました。
ボランティア当日
朝6時頃から周りの方が準備し始めていました。
筆者はスマホの充電もしたかったので、早めにチェックアウトして、空港2階のスペースで時間を潰していました。
ボラバス
珠洲市へのボラバスは七時半に空港の駐車場に集合しました。
バス内で朝食を食べている人も何人かいました。
移動中に見えた町並みは今までより災害の痕跡が残っていました。
半壊や全壊の建物も多くあり、道もオフロードのように凸凹していました。
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ボランティアセンター
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まずは予約した(珠洲市の)ボランティアセンターにその日のボランティアが集まります。
オリエンテーションを受けたあと、グループわけを行い、各自でボランティアを行う家庭へと軽トラで移動しました。
ほとんどのボランティアの方は経験のある方で、初めての人は全体の3割程度でした。
(珠洲市での)ボランティア経験の有無や性別、軽トラを運転できるかで、作業ごとのグループが分かれました。
ボランティア活動
分かれたグループで担当の活動に必要な用意を揃えて、活動場所に向かいます。
今回筆者たちのグループは、木材や家具の運び出しを担当しました。
午前に一件行い、ボランティアセンターで昼休憩をしたあと午後に一件行いました。
ただ他のボランティアさんの話を聞くと市や日にちによって活動の割り振りや行い方は様々なようです。
ボランティア活動で出た災害廃棄物は、仮置き場まで運んでいきます。
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ボランティアを終えて
ボランティア活動をする地域に入ると一気に災害から復興なんてまだ先だということが分かりました。
家屋全体が斜めに傾いていたり、一階部分の壁が外側に広がっていたり、そもそも一階が潰れてしまっていたり、車が家の下敷きになってぺしゃんこになっていたり、家が壊れすぎて地面の上に瓦が並んでいるように見えたり
信号機が傾いて今にも届きそうだったり、地面がずれて車で走行するとがたがたと揺れるためスピードが出せなかったり、
住んでいる方たちから大きな悲壮感が感じられるわけではなさそうでも、これは普通の暮らしではないなと思ってしまいました。
そして、そんな非日常な中で生活を続けている不自然さやどうしようもなさにショックを受けてしまいました。
全く影響を受けていない家屋の横で、ぼろぼろになった家があり、その隣では商店が営業してて、でもそこの交差点の信号や看板は傾いて、言い難い気持ちになりました。
ボランティアの方たちと交流できたのもよかったです。
もちろん石川にゆかりがある方もいましたが、多くの方は「ボランティア」自体に意味を見出しているように思えました。
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