日本人は話し合いの民族なのか【逆説の日本史①古代黎明編】
小説家の井沢元彦による日本史を扱った書籍である「逆説の日本史①古代黎明編」を読了したので、その読書記録です。
ネットで「逆説の日本史」と検索すると、「トンデモ」や「間違い」というキーワードが出てきます。
私は楽しく読みましたが、史実を理解するための教科書ではないと捉えた方がよさそうです。
本書は5章で構成されており、弥生時代から古墳時代までについて書かれています。
以下に章ごとに面白かった部分について触れていきたいと思います。
日本の歴史学の三大欠陥
著者の井沢氏は日本の歴史学では大きな欠陥が3つあるといい、
・呪術的側面の無視ないし軽視
・資料至上主義
・権威主義
をあげています。
これらに反論するような形で本作は論じられていました。
古代日本列島人編
日本はかつて「倭」や「和」と呼ばれていた。
そこから、「大和(やまと)」となり、今日の「日本」と呼ばれるようになっていった。
第2章の古代日本列島人編は「倭」という国号の意味から日本史を紐解いていこうとする章で、個人的に好きな章です。
筆者の井沢氏は国号の「倭」は中国語「倭」の意味からではなく、原住民である日本列島人が「ワ」と答えたため同じ発音の「倭」という字を当てたのが由来であると書いています。
通説ではその場合の「ワ」の意味は「我らの国」という意味だったと考えられ、その後「みにくい」という意味を含む悪字の「倭」から「和」と改めたと言われています。
井沢氏は「ワ」に最も近い概念で、「ワ」という発音に近い「和」となったと考えられると続けています。
古代日本人が発した「ワ」を大和言葉で探すと、筆者曰く「輪」「環」の二つのみで、どちらも「めぐらす、サークル」という意味をもっているそうです。
古代の日本のクニと呼べる集落は「環濠集落」であったため、日本列島人は自分たちのクニを「環(ワ)」と答えたのではないかと筆者は考えています。
ではなぜ「倭」から「環」と改めずに「和」としたのか。
筆者の井沢氏は、国家意識の成長により「クニ」を理解した日本人は「ワ」という言葉にアイデンティティを入れるために「和」としたと書いています。
当時の知識人であり、日本仏教の祖と言われる聖徳太子は、十七条憲法の第一条に「和を以て尊しと為す」と記しています。
十七条憲法では第二条に「あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。」第三条に「詔(天皇の命令)を承りては必ず謹め。君は天なり。臣は地なり。」と続いています。
当時の最高の法律である十七条憲法に大切なことを①和②仏教③天皇への忠誠の順に書いているのです。
井沢氏はこの「和」という精神は当時の主流であった儒教の教えにはないことから、日本独自の考え方であると書いています。
聖徳太子が示した「和を以て尊しと為す」に続く部分を伊沢氏が要約すると「日本の社会は”話し合い”が絶対であり、”話し合い”がうまくいけば”何事もなしとげられ”る」ということになります。
つまり当時の日本のアイデンティティは、「和」の精神、「話し合い至上主義」であると結論付けたのです。
大国主命編
列島各地にあった小国家が「和」の理念の下に独立共同体を作った。
それが「大きな和」つまり「大和」になった。
第3章の大国主命編は「わ」という日本人のアイデンティティに深掘りしていきながら、神話を紐解いていこうとする章で、この章も好きな章です。
「わ」は話し合い至上主義であり協調を意味するから、争いはさけるべきであり、争いが起これば怨念が残って「わ」が乱れるという考えが日本にはあると筆者はいいます。
そしてその「わ」と「怨念」という考えから出雲大社が建てられたと考察しているのです。
つまりオオクニヌシは「国譲り」の際に殺害され、古代日本人はオオクニヌシの怨霊を恐れ、その怨霊を封じ込めるために出雲大社を建てたというようです。
現世(うつしよ)はアマテラスの子孫(皇室)が治め、幽世(かくりよ)はオオクニヌシが治めることになったという話もとても面白かったです。
卑弥呼編
アマテラスの話から卑弥呼が起源248年9月5日に殺害されたのは、邪馬台国が狗奴国との戦争に敗れ、その年に皆既日食が起きたためという考察が書かれています。
神話と現代の日本につながる話が出てきてこちらの章も楽しく読むことができました。
神功皇后編
宮内庁が天皇陵や陸墓参考地の調査研究を徹底拒否するのは、おそらく天皇のルーツが朝鮮半島に遡ることにたどらせないようにする意図かという内容が書かれています。