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【小説】ラヴァーズロック2世 #09「透明アクリル世界」
あらすじ
憑依型アルバイト〈マイグ〉で問題を起こしてしまった少年ロック。
かれは、キンゼイ博士が校長を務めるスクールに転入することになるのだが、その条件として自立システムの常時解放を要求される。
転入初日、ロックは謎の美少女からエージェントになってほしいと依頼されるのだが……。
注意事項
※R-15「残酷描写有り」「暴力描写有り」「性描写有り」
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※連載中盤以降より有料とさせていただきますので、ご了承ください。
透明アクリル世界
高台の家へと続く長い坂道をロックは上る。
開発されて間もないこの一帯は、まだ雑草すらろくに生えておらず、少年が気に留めるようなものは何ひとつ見当たらない。
なだらかな傾斜で左右に大きく蛇行している広い坂道には、贅沢に幅をとった歩道があり、住民たちは安心して上り下りをすることができる。
コンクリートの舗装面には、市役所の地図記号が滑り止めとして規則正しく打ってあって、今朝がたの激しい通り雨の痕跡が、そのリング状のくぼみにまだ少し残っていた。
心地よい疲労感。刻まれる一定のリズム。ゆっくりと流れ去っていく、ありふれた景色。これらの条件が揃うと、かれはある種独特の、得もいわれぬ思考状態に移行し始める。しかも、自立システムの常時解放がそれに拍車をかけているらしい。
タンクトップ365とキングギドラのような女子3人組。本当は大したことなかった天才と秀才。それからホクロ。教室での緊張と退屈。優しくて残酷なクラスメイトたち。ウィジャボードでのストライプさんとのとりとめのない会話。謎の美少女イランイランとの邂逅。そして、無意識に視界に入ってくる、平凡な景色の中の事物が連想させる雑多なイメージ。それらが前後の脈略もなく自然につながり、言葉の連なりとなって目の前を流れていく。
偶然に出来上がってしまった言葉の新しい組み合わせは、更に無意味で無関係な言葉と結合し始め、今までに感じたことのない新しい感情を呼び起こす。
半透明のままで立ち上がった捉えどころのないこの微妙で繊細な感情を、今度は逆にその源泉であったはずの具体的な言葉として定着させようとした瞬間、言語は逃げるように消え去ってしまい、感情もそれを追うようにフェードアウトしていく。
小説を書いてみてはどうか、とストライプさんはいったけれど、自分には到底無理だ。創作への熱意も才能もないのだから……。
けれども、たった今、見て感じているこの世界そのもののような書物を書き上げることができたならば、どんなに素晴らしいことだろうとも思ってしまう。
ぼくらのことを全く知らない、もう一つの宇宙に住む人々に、自己紹介がてらに手渡せるような書物を……。
坂道を上りながら夢想するこの時間、この体験そのものが創作であり作品であったなら……。
人類、いや、生命の到達点としての究極の書物など、想像すらできないけれど、ぼくの頭蓋骨の中の自立システムには得体の知れない何者かがいて、そいつは観測可能な宇宙どころか、それをもごくごく一部に持つような全宇宙、その想像を絶する広大なスペースに、1,000億回でも1兆6,400億回でも累乗できる能力を持っていて……。
坂道も中盤に差し掛かると、今度は高台の家に着いたあとの自分、ほんの数歩先にある未来の自分について想いを馳せ始める。
やがて少年は、玄関から2階の自室に向かって速足で階段を駆け上がることだろう。
ドアを閉め照明スイッチを入れると、四方の壁にディスプレイされた標本ケースの裏のライトも点灯し、均等に並ぶ透明な立方体の中で、色とりどりの鉱物たちが一斉に輝き始める。
鉱石ラジオの手前に無造作に置かれたホイール・ロック・ピストルの引き金をとりあえず何回か引いて、儀式的に火花を発生させる。
そして、石たちが放つ虹色の光を頬に浴びながら、少年は書物を開き読み始めるのだ。
ページをめくりながら頬張るレーズン入りの栄養補助スナックも、やむを得ず読書を中断して詰め込む母親の手料理も、結局は二次的なもの、極めて機械的に処理されるもので、そこにいわゆる〈生活〉というものはない。
整えるべき〈生活〉を必要としない若者の特権を最大限に利用して、少年は豊かで無駄な時間を生きるのだ。
小説はストライプさんの著作『透明アクリル世界』。
我々一人ひとりが透明なアクリル板で四角く仕切られてしまった世界。
アクリル板の高さや仕切られた空間の広さはまちまちで、刻々と変化しながら突然消えたり現れたりする。
おまけに、あまりに透明過ぎるそのアクリル板は、直接手で触れて確かめるか、板の向こうにいる人のくぐもった声の感じで推測するしかないという。
少年はページを開いたまま顔を上げ、目を閉じたり虚空を見つめたりする。
美しい書物を手に持ちながら、連想ゲームのようにイマジネーションを際限なく広げていくと、ああ、この時この瞬間がぼくの最高傑作であり、本当の意味で世界とつながった感覚、世界の一部であると同時に世界全体でもあるという、例のヤバい感覚に浸ることができるのだ。
反対側の歩道に突然現れた車止めの向こうに、真新しい児童公園が見えた。
前からこんなところにあったのだろうか、それとも自分が気づいていなかっただけなのか。
ロックは足を止め、敷地内に入ってみる。
坂道の途中にあるにもかかわらず、この小さな児童公園が傾いていないことに、当たり前ではあるが少々感動してしまう。
てっきり誰もいないと思っていたが、入ってみると入り口付近のブランコに物静かな一組の母娘がいた。
母親はかなり若く、地味な色合いのボリューム・スリープ・ブラウスを着ていて、娘の乗ったブランコを前後に五センチメートルほど揺らしていた。
まだ2歳くらいの娘のほうは、丸襟に可愛らしいフリルのついた紺色のワンピースを着ていて、太い眉毛にあらん限りの力をこめてロックをにらみつけていた。
ああ、この母娘は坂の町の新しい住人だな、とロックは悟る。と同時に、自分とこの母娘の間に、例の透明なアクリル板が存在していることにも気づいてしまう。
かれは母娘に近づくと、おもむろに右腕を上げ、人差し指を幼女の眉間に近づけてみる……さあ、さえぎるモノがないかどうか確かめるのだ。
爪の先に何かが触れる。が、それは信じられないくらいに透明で全く見えない。
視覚ではとらえられなくとも、そこに何かが確実に存在すると知ってしまったら最後、もう疑うことなどできないのだ。
かれは躊躇なく、そこにあるはずの透明はアクリル板に自分の顔を押しつける。
曲がる鼻と歪んだ頬、だらしない口元から垂れた唾液がひと筋、アクリル板を伝って流れ落ちる。
押しつぶされた顔は常軌を逸してはいるけれど、ロックの眼は冷静に母娘の反応を観察していた。
幼女はますます眉間に力をこめてロックをにらみつけていたが、恐怖のあまり見続けることができなくなったのか、あるいは、これは見てはいけないものなのだと幼いながらも気づいてしまったのか、プイっと顔を背け、あらぬ方向に焦点の定まらない視線を向けるのだった。
大人しそうな母親のほうは、赤くなった顔を下に向けたまま凍り付いてしまっていた。
一方ロックはというと、まだ幼いころに住んでいた、あの忘れ去られた地域の野蛮な住人たちのことを思い出していた。
確かに、あの当時の自分は羽目を外し過ぎることが多々あったのかもしれないが……奇妙奇天烈な顔でチャイコフスキーのナッツクラッカーを口ずさみながら、自分のナッツを振り回しただけなのに……奴らときたら、人を指さしながら下品な顔で大笑いしたり、集団で石を投げつけてきたりしたっけ……。
それに比べて、この母娘の品の良さはいったい何だろう。
ロックは新しくできたばかりの、この坂の町の住人たち、育ちの良さそうな住人たちのことを心底愛おしいと思っているのだった。
そんなもの想いから醒め、我にかえると、目の前にいたはずの母娘の姿は跡形もなく消え去っていた。
無人のブランコは揺れてさえいなかった。
公園の湿度は高く、脇に建つ画一的な住宅の間から、夕陽が細く射しこんでいた。
そのオレンジ色の光線は、地中から半分顔を出している緑と黄色のタイヤステップを横切り、鉄棒の光沢に冷たく反射していた。
眩しさと得もいわれぬ充実感を感じ、かれは目を細めた。
公園を後にしたロックは、透明なアクリル板に囲まれながら、また坂道を上り始める。
どこからともなく飛行機のジェット音が聞こえたような気がして、かれは何度も立ち止まっては空を見上げた。
クレパス画のような夕空に、何やら白いものがキラリと光る。
それは、はるか上空を飛ぶ大型旅客機で、今まさにかれの頭上を通過しようとしているようだった。
少年の大きな瞳がその機体をロックオンした瞬間、旅客機の姿は消えジェット音もピタリと止んでしまった。
しばしの静寂のあと、上空から白い紙切れのような物が一枚、ひらひらと舞い降りてくるのが見えた。
アクリル板に衝突したパターンだな……何しろ透明だから。
衝突時の衝撃で紙のように薄くなってしまった旅客機は、落葉のように舞いながらゆっくりと落下し、やがて待ち構えていたロックの掌に不時着した。
遠くにあるから小さく見えるのだ、と普通に思っていたけれど、実際は見た目そのものの大きさだったんだなぁ……。
かれは歩きながら、ペラペラに薄くなった大型旅客機を胸ポケットにしまった。
その上空では、急に途切れてしまった飛行機雲が、主の居場所を見失ったまま、人知れず夕空の色にゆっくりと溶けてゆくのだった。
つづく