劣等感の話
僕には、幼稚園、小学生の頃、ゲームをしていた記憶がほとんどない。
やっていたことといえば、祖母の家でNHKのBS放送でやっていた名作アニメを見るとか、小説を読むとか、散歩に行くとか、そんなことばかりしていた。
高校に入って驚いたのがびっくりするくらい多くの人がWiiU、DS、ポケモンのカードゲーム、遊戯王など、そういう類のゲームに関する情報を共通認識として持ち合わせていたことである。
僕もかろうじてDSは持っていたが、やっていたのは脳トレみたいなやつで、正直楽しくはなかった。
実際、そうそうに飽きて、親からの「DS取り上げるぞ」という脅しも意味を為さなくなった。
そんな子供時代だったから、友人やらクラスメイトやらにそういったゲームの話を振られて、やったことないから分からない、と返すと、みんな目を丸くする。
親が買ってくれなかった、と言うと、相手は勝手に僕の親が教育熱心なのだと勘違いする。
でも本当は、当時ゲームなんぞにかけるお金が無かっただけ、ということを僕は知っていた。
僕はそういうひねくれた子供だった。
幼少の頃から、僕の周りにはやたらと裕福な家庭の子供が多かった(普通は、貧乏人の近くに金持ちは集まらないんじゃないのか)。
幼稚園に外車で迎えに来て、帰りはみなさんお揃いでちょっと小洒落たカフェに行くような、そんな人たちもいた。
どうしてか、そんな人たちのご招待に預かり、彼ら彼女らの家に遊びに行ったこともある。
目の前に広がるのは、綺麗な家具と真新しい電気製品、ふかふかのカーペットに外国産のお菓子の数々!
意味が分からなかった。
僕がこの世が不平等であることを知ったのは五歳の時だった。
昔から自身の親の目よりも、よその親の、品定めするような目が怖かった。
自分の子に僕がふさわしいのかどうか、視界に入るたび、査定されている気がした。
気がしただけじゃなくて、実際そうだったんだと思う。
言葉の節々に感じる、こちらを試してくるような、困らせるような意図が透けて見えて、吐き気がした。
僕は、そういう不快な視線から、僕を守ってくれるものを何一つとして持っていなかった。
それに気付いた頃には、残された道は勉強しかなかった。
必死だった。
見下されるのが嫌だった。
幸いにも、中学時代は良い成績を修め続け、そのおかげもあって、露骨な品定めはなくなった。
僕にとって勉強は、認めてもらう為の手段だった。
楽しいとかそんなことは考えたことがなかった。
こんな僕にも価値があるのだと、証明するためのものだった。
なんてくだらないことをしてたのか、と気付くまでに随分かかった。
あの頃の僕にとって、学力は正義だったから。
でも今は、それが全てではないことを知ってる。
もちろん全てじゃないだけで、大事ではあるのだけど。
それでも僕は、人と優しさで交流できる僕の方が人間らしいと思える。
多分、そうやって誤魔化してるだけの劣等感は一生消えないけど、それでいいのかもしれない。