青春の話
高校二年の冬。200mlパックのコーヒー牛乳を飲みながら友人と廊下を歩いていると、吹き抜けの方からクリスマスの曲が聞こえてきたので見物に行くことにした。
吹き抜けを見下ろせる場所には多くの人が集まっていて、階下でクリスマスのコスチュームに身を包んだ合唱部の歌を聴いていた。私と友人もその人混みに加わり、手すり越しに歌やダンスを見た。
真剣に演奏を見ていた友人が歌と歌の間に「青春だね」と笑うので、私はてっきり部活に打ち込む合唱部たちを指しているのかと思って、「じゃあ私は青春に為り損ねたなぁ」と返した。私も友人も重度の幽霊部員かつ帰宅部だった。すると友人は、「合唱部もそうだけど、今の状況も十分青春だと思うけどな」と言って、手すりの上に置いておいた私のコーヒー牛乳を飲んだ。
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私の通っていた高校はそれなりの進学校で青春とは無縁の場所とよく言われていた。元男子校なのもあって、風習や行事は男子校特有の(と言ったら失礼かもしれないけど)雰囲気を持つものがほとんどだった。私の偏見かもしれないけど、男子はのびのびと、女子は少し窮屈に思う学校だったと思う。制服も男子は学ランに制帽だからダサいも何もないが、女子はよく分からない形のブレザーで少なくとも可愛くはなかった。スカートを二回巻いて数センチ丈を短くしたところでセーラー服には敵わない。スタートラインの時点で何かに負けているような気がしていた。
私は高校で青春をするつもりは微塵もなかった。するつもりというか、自分が青春している姿が想像できなかった。他人より劣る容姿、コミュニケーション能力、他人それから自分への興味、足りないものを挙げていけばキリがない。それに青春はどこからか降ってくるものではない。自分で自分が青春をする場所を決めて、そこで多少なりとも努力をする必要がある。私にはその気力がなかった。だから、ただ何もしないまま出来ないままの時間を過ごして、ああ今日も時間が過ぎたなと思うことしか出来なかった。
でも別にそれが嫌なわけじゃなかった。私にとってはそれが当たり前で、青春という概念を渇望している人達がそれに群がっているのを、貴方はそっちを選んだのね、と見ていればよかった。行事の度にクラスで髪型をそろえたり、化粧をしたり、リボンを編み込んだり、女子たちがそういうことを熱心にやっているのを私はある種の尊敬を持って見ていた。彼女たちには頑張ろうと思う気力が、思い出を青春に昇華しようという熱意があるのだ。嫌味も僻みもなく、ただ純粋にすごいなぁ、くらいにしか思えなかった。それをするかしないかの分岐を、私はその都度しない方を選んでいるだけだった。
他人から見たら、文化祭や市内のライブハウスでバンド演奏をすることも、文化祭の実行委員として学校に泊まり込んだことも、迎えに来てくれる友人たちと毎日のように教室の外でお弁当を食べることも、他校の男の子と付き合うことも、友人と学校帰りに河川敷でアイスを食べて馬鹿話をしたことも、青春になるのかもしれない。確かに、それらは私にとって大切な思い出だけど、それでも青春と呼んでいいのか分からなかった。
私にとって、思い出と青春は違う。
思い出に努力は伴わない。思い出は、どんな風に時間を過ごしたか、という、ある意味記録のようなものだと思う。記録を美化するかしないか、自分自身の選択に委ねられているけど、それでも思い出は誰にでも平等に開かれている。私のように受け身な時間を過ごした者にも思い出は残る。
でも青春はなんとなく違うものなんだと思う。青春は、あんな風になりたい、という意識(あるいは目標)によってその人が努力して得るべくして得たものだと私は思う。頑張った人にはご褒美ね、的なあれだ。私の元にある思い出は、結局のところ、どれも受け身でしかない。バンドだって文化祭の実行委員だって他人に誘われたからやっただけで、勿論やると決めたのは自分だけど、初めから自分で行動を起こしたわけじゃない。
だから、冒頭で友人が発した「青春だね」という言葉を私は肯定できない。私たちは他人が努力した結果を、発表している様を見ているだけで、私たちは何もしていない。
私は高校生活で何ひとつ努力と呼べることをしなかった。ただ流されるまま、自分で選択肢を用意することもなく、二択を迫られたらそれを受け身的に選んだだけだった。だから私の元には青春はない。あるのは思い出ばかり。それでも、思い出だって十分美しく、そして私にとってはとても価値のあるものだ。がんばらないと手に入らない青春より私は時間経過を愛でていたい。私にはそれで十分だった。ただ、それだけの話。