一生懸命に、無我夢中に。 その先に 「自分らしさ」があると思い込んでいた2020年の君へ。
就職を辞め、卒業を延期し、休学届けを提出し、まともに弾けもしないギター1本抱えて函館に移住した。
こんなにも大きな選択が連続した1年。
これから綴る振り返りが、誰かの背中を押すきっかけになったら嬉しい。
函館に移住し、夏は路上ライブでいただく投げ銭で生活をしていた。
下手だけど、弾きながら歌うなんてやったことがないけど、マイク1本で歌うスタイルから弾き語りのスタイルに変えて、多くのステージに立った。
毎回緊張して手が震えるし、慣れないギターに集中して思うように歌えなかった。
それでも、「今は恥をかこう」と腹をくくっていた。
ギターを上手くなってから人前に立つという目標を掲げると、きっと1年後も、ステージ上にいる自分はマイクしか持っていないだろう、と思ったから。
弾き語りで、テンポ、音の強さ、アレンジ、盛り上がり、雰囲気を思うがままにコントロールするシンガーソングライターになりたかったから。
秋になって路上ライブで投げ銭をいただくことに抵抗を抱くようになった。
今の段階の自分は、慣れない弾き語りで上手く歌えないという気持ちを抱えながら歌を歌うよりも、マイクを握って集中した方がいい歌を歌えると知っていたから。
恥をかいて変な汗をかきながら歌う自分のパフォーマンスによりも、もっとよりよいパフォーマンスをできる自分を知っているから。
投げ銭をくださる方に対して、「本当はもっといい歌を聴かせたかった」と心の中で思いながらお金をいただくようになってしまっていた。
だから路上ライブの回数を減らした。
そして当然、収入が減った。
函館に移住するまでにと、バイトしまくって貯めた貯金はあっという間に底をついた。
言葉通り本当に底をついてしまい、この2ヶ月は1,300円の食材を購入するための1回きりしかスーパーで買い物をしていない。
お昼ご飯は以前に業務スーパーで大量に買っておいたパスタを茹でるか、外出の予定がある時はおにぎりを握るかしている。近所の方々にいただく野菜やお米、美味しい差し入れで「生かされている」という表現がすごくしっくりくる。
体も心もすごく健康であり、辛い・苦しいだとかを言いたいわけではなく、それほどに生きている実感を得ながら日々過ごしている。
こんなにもお金がない生活はこの先にもあまり経験することはないだろうと思いながら、ポジティブに生きているつもりだ。
今月の支払いが危なくなってしまい、年末だけの1週間の短期バイトをした。
アルバイトの業務内容としては簡単な方で、かなり暇な時間が多かった。
社員が常に側にいる小売店だったのだが、アルバイトの人は皆、”社員に対して仕事している姿勢を見せなきゃ”という意識で動いているように感じた。
後でまとめて拾えばいいゴミを一回一回拾いに行く、まとめて洗えば洗剤も節約になるし時間も短縮できるものを、一回一回洗う。
一生懸命であろうとしているように見えて仕方がなかった。
でも、ふと、今年の自分を客観的に見たような気分になった。
「何かに没頭することを早く見つけないと」 というしがらみ
この1年はずっともやもやしていた。
とにかく、ずっと、もやもやしていた。
イベントやバイトや音楽の活動などを通して、かっこいいと思える大人に出会う機会が増えた。
「こんな大人になりたい。こんな大人たちと一緒に仕事がしたい。かっこいい大人なシンガーソングライターになりたい。」
意識高い系と比喩され、大学内で自分がどんどん浮いていくことを感じていながらも希望を持って生活できていた過去が楽しかったのは、その願いのおかげだろう。
しかし、大学卒業が目前となり、気づいてしまった。
「もう自分は、大人だ。」
僕が憧れたかっこいい大人たちと自分との間には、言うまでもなく、とてつもなく大きな差がある。
経験値の多さ、関わる人の数、影響力の強さ、お金を生み出しているという事実。今の僕には到底追いつけるわけがないし、多くの時間と労力を費やすことでしかその差を埋めることができないこともわかっていた。
それなのに、早く自分の足で立ちたい。
早く、この人たちと一緒に仕事がしたい。
この人たちと仕事をするために、今の自分が発揮できるバリューは何だろう。
そんなことばかり考えるようになっていた。
だから、音楽と並行して色々なことに手を出した。
文章を書けるというわかりやすいスキルを求め、ライターになろうとした。
若者視点のアイデアを出せる、なんてことを強みに企画の仕事をしようとした。
学生のネットワークを持とうと、コミュニティを作ろうとした。
商売感覚を身につけようと、BAR営業を始めたりした。
関係人口創出という聞こえのいい言葉を盾に、リソースもないまま行政に提案をしたりした。
本当に色々”試した”1年だったと思う。
一生懸命に、無我夢中になることこそが、「自分」というものを育み、スキル獲得のための道の歩み方であり、未来に繋がると思っていた。
考えて考えて、これかもしれない!と思って、実際に本を買って勉強してみる。イベントに参加してみる。少し実践的に取り組んでみる。”試して”みる。
その度に、これを続けていても、自分はできる男になれない。かっこいい大人になれない。と思ってしまう。
だから、自分にしかできないことは何だろうとか、自分らしさって何だろうって考えてしまう。
「自分らしさって何だろう」なんて、この1年で何百回、何千回、問いかけたかわからない。考えない日はなかったと思う。
自分がとる行動すべてが自分らしさであり、自分が考えること全てが自分らしさであると、今では結論づけられているのだが。
試すだけで、すぐ思考に戻ってしまい、やり切る癖がないまま、生き急ぎ、焦りすぎていた。
ある人と話している時、「同い年の友達のほとんどは今年から就職し、僕はまだ大学生という立場を延長している。就職をすることでしか学べないことも沢山あり、自分はその学びを、自分自身が動くことで補わなければならないと焦ってしまっている。」と言った。「早く結果を出したい。」とも言った。
すると、返ってきた言葉は
「結果ってなに?」だった。
たしかに、自分が友達や後輩に、早く結果を出したいんですと似たようなセリフを言われていたら、全く同じ問いを返していたと思う。
この1年間、自分らしさを問い続けるうちに、あらゆる物事を自責で捉えることができるようになった代わりに、あらゆる矢印が自分に向いてしまうようになった。
この仕事は、自分の人生の中の、何に繋がるのか。
この1日は、自分の函館での模索の日々の中の、どんな未来に繋がるのか。
この買い物は自分にどんなメリットをもたらすのか。
街をよりよくしたい、人をよりよくしたい、という外向きの矢印を掲げて始めたはずの様々な活動が、この活動を通して自分の人生はどう切り開かれるのかという、内向きの矢印に変わってしまっていた。
わがままでで、小さくて、かっこいい大人とは程遠い。情けない。それでも自分は、かっこよく生きていきたい。
今年はかっこよくない自分を嫌というほどに知った1年だったと思う。
来年はかっこいい自分になりたい。
いや、そうではない。そうではなく、
自分を必要としてくれる人やコトがあれば、アクションを起こす。
自分の取り組みが、地域にとって、友達にとって、チームにとって必要だと感じる瞬間があれば、成果にこだわってやり切る。
来年は修行期間だと思っている。
自分の将来のための修行期間、ではなく、とにかく成果にこだわり続けるという修行期間である。
目の前のことに、向き合い続ける。思考することをやめるべきではないが、思考することで逃げない。
今は心からワクワクする話もあるし、やる切りたいこともある。
なにかに繋がるとかの未来思考ではなく、今を精一杯生きる。
相変わらず収入は少ない1年になるだろう。
それでも来年の今日に、このnoteを書いてよかったと、この振り返りがあってよかったと思っていたい。