心臓日記第1部 その3──ICUパート2:3つの夜
夜。薄暗い中、何日も眠れない。それだけではなく、なにかこれまでに感じたことのない異常な感覚がある。「これをこうしてこうならないと眠れない」みたいなものが浮かぶ。それがなんだかは分からないのだが、そうかこれをこうしてこうできないと眠れないのか、と思う。具体的なものなど何もない。
次に「眠る方法」が分からなくなる。方法も何もないのだが「眠るにはどうすればいいのだ?」と考え始める。
眠っていない時、何かを考えている。ふつう眠ったらそれは消えて、起きた時に「眠っていた」と気付く。しかしこの時は「眠っている時も、起きている時と同じように考えている」という状態になっていた。つまり眠っていても「眠れない」という思考が巡っているので、常に起きていることになる。何十時間も一睡もしていないなどということはありえないのでおそらく断続的には眠っているのだろうが、感覚がこの状態なのでまったく眠った気にはなっていなかった。
そして現実と夢が交わり始める。眠ろうとして起きているこちら側の現実、眠っているが起きているあちら側の現実──つまり夢の世界。その間に「眠っても起きてもいない世界」があった。フィリップ・K. ディックの『ユービック』のような、半生半死の世界だろうか。しかしその時に思ったのはH.P.ラヴクラフト原作の映画『フロム・ビヨンド』であった。あちらとこちらの間の世界にいる怪物が、こちらの世界に侵入してくるという映画。その「間の世界」に囚われた気がした。すごく怖かった。
その後通常病病室に行ってから数日後にはふつうに眠れるようになり、「いままで寝てた。いま起きた」という感覚が復活する。そうするとその中間世界は完全に消失した。
しかし今でも思い出せるあの「間の世界」。この世でもない、あの世でもない、その間にある別の世界。それはあの時の自分の状態がなせるただの幻だったのか、それとも他の何かだったのか。
退院して、だいぶあとになってからペンギンに「先生に、『脅すわけじゃないですけど、4, 5日目が一番危ないんです』と言われた」と教えてもらった。そういうことだったのかもしれない。
別の夜。隣の部屋から会話が聞こえる。かなり重い病気のようだ。その方の配偶者はどうやらいま遠方におられ、来るまでには相当時間がかかりそう。先生が言う。「手術はできます。しかしかなり難しく厳しい手術です。成功するかどうか分かりません。あるいはこのままベッドの上で投薬し続けることもできます。ただし一生このままです。どちらかを選んでください」。隣の部屋でえええそんな無茶なと声を上げずに叫んだ。そんなの選べない。自分だったらどうする、いや無理無理無理。
その人は手術を選んだ。
数時間後の真夜中、部屋に戻ってきた。「成功しましたよ」という先生の声が聞こえた。配偶者の声も聞こえる。
カーテンに阻まれて誰の顔も見えない。
ICU最後の夜。隣のご老人は数日前から調子が悪そうだった。ここ数日、病室にいろんな人が来ていていた。息子さん家族(たぶん)も来ていた。「まだ親孝行出来てないんだから、親孝行させてもらわないと」そういう声が聞こえた。
1週間ぶりのまともな睡眠を取れたのがそのICU最後の夜だった。菊地成孔さんのレストランやバンドの夢を観て(ちゃんとした普通の夢)夜中に目が覚めると、さっきまで薄暗かったはずの隣の部屋に電気がついていて、静かになっている。何人か家族が来ていて病院スタッフと静かに会話している。そしていったん、みんないなくなった。
また別の家族がきて話している。泣きながら話しかけている。ごめんねごめんね。ありがとうありがとう。何度もそう言っている。
その後、人がたくさん入ってきて(カーテン越しだがよく分かる)、先生が脈拍と瞳孔を確認する声がする。そして午前2時半ごろだった。死亡宣告がなされた。「ありがとうございました」と誰かが言った。
顔も見たことがない人が亡くなってボロボロ泣いたのは初めてだった。
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