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蝉のように、もう一度②

内面的な崩壊

桐谷は、次第にその華やかな世界の中で自分を見失っていった。表面では完璧に笑顔を作り、次々と期待に応え続けていたが、その裏では心の奥深くに空虚さが広がっていた。華やかな舞台、拍手、そして無限に膨れ上がるフォロワー数。それらは桐谷にとって、手の届かない理想の姿を映し出す鏡のような存在だった。しかし、鏡に映るのは常に輝いて見える「他者の期待」に応えた自分だけで、彼自身の本当の姿はどこにも見当たらなかった。

「もっともっと輝かなきゃ…みんなが僕を必要としてるんだから」

桐谷は毎日、無意識にこの言葉を自分に言い聞かせながら、心を削り続けていた。しかしその言葉が逆に彼を追い詰めていった。「みんなが僕を必要としている」という事実は、桐谷にとっては自分を演じ続けなければならない重圧となり、ますます心に重荷を感じさせた。休む暇もなく、次々と押し寄せる仕事に追われる中で、桐谷は自分の「本当の自分」を見失っていった。

夜、ようやく一人きりになると、桐谷は鏡の前に立ち、無表情で自分の顔をじっと見つめた。彼の目の奥には、どこか遠くを見つめるような空虚な光が宿っていた。笑顔を作り続けることに疲れたその顔が、桐谷にとってはまるで他人のもののように感じられた。

「本当の自分ってなんだろう?」

この疑問が、次第に桐谷を圧倒していった。彼は「地中にいたときの自分」がもう遠くに感じられることに気づいていた。静かな暗闇の中で、何も求めず、ただ自分を守ることだけを考えて過ごしていたあの頃の桐谷は、今やあまりにも遠い存在になった。地上で得たものは、彼にとってはもはや手に余るものばかりだった。人々の期待、メディアの光、次々と押し寄せる仕事の数々。すべてが桐谷にとって、ひとつひとつが重くのしかかってきて、心も体も耐えられなくなり始めた。

桐谷は、表向きには順調に見える生活を送りながらも、心の中で常に葛藤を抱えていた。周りの期待に応え続けることでしか自分を証明できないという恐怖が、どんどん深まっていった。彼は次第に、「自分らしさ」を失い、誰かの期待に応えるためだけに生きているような感覚に囚われた。

ある晩、桐谷は耐えられなくなり、深夜まで仕事を続けた後、ようやくベッドに横たわった。しかし、その身体の疲れは、肉体的なものだけではなかった。心もまた、限界を迎えていた。桐谷は目を閉じても、あの「本当の自分」を見つけることができなかった。深い眠りに落ちることなく、ただひたすらにその無力さと空虚さを抱えたまま、時が過ぎていった。

そして、ある日、桐谷はついに限界を迎えた。彼は仕事を終えた後、立ち上がることができなくなった。心も体も完全に疲れ果てて、眠ることもできず、食事を取ることも忘れ、ただひたすらに仕事をこなす日々の中で、桐谷の身体は耐えきれなくなった。強烈な頭痛と吐き気が襲い、最後にはそのまま倒れてしまった。

倒れた桐谷は、目を閉じると、ふと一瞬だけ、あの地中にいた頃の静かな記憶が頭をよぎった。あの時の自分は、無理に何かを演じることもなく、ただ存在していただけだった。そして、桐谷は静かに深い眠りに落ちていった。その瞬間、彼の中で何かが壊れ、崩れ落ちた。

最後の瞬間

病院のベッドで目を覚ました桐谷は、何もかもが遠く感じられた。体は重く、全身に鉛のような疲労感がまとわりついていた。手を動かすことすら億劫で、ただ無意識に目を開けた先には、心配そうに見守る人々の姿があった。しかし、桐谷はその目線を感じることすらできなかった。誰かが彼の手を握ろうとするたびに、彼はただひたすら目を閉じ、何も言わずにその手を受け入れていた。

「どうして…こんなことになってしまったんだろう?」

桐谷は心の中でその問いを繰り返しながら、静かに自分を取り戻すことができなかった。言葉にできない苦しみが、彼の胸を締め付けていた。彼は、すべてを放り出してしまいたい気持ちでいっぱいだった。何もかもが彼にとって、ただの重荷に過ぎなかった。周りの期待に応え続けることに、あれほどの喜びを感じていた自分が、今では信じられなかった。

「もう、無理だ」と桐谷は感じていた。どれほど無理して輝こうとしたのか、それが全て空虚であったことに気づいた時、彼の心には深い絶望が広がった。あの地中で過ごしていた、何も求めず、ただ静かに過ごしていた日々がどれほど幸せだったのか。桐谷は、涙がこぼれそうになりながら、その静けさを思い出していた。そこには、他人の期待や評価もなく、ただ自分だけが存在していた。それが、今の自分にとってどれほど大切だったのかを、ようやく理解することができた。

彼の目には、最後に見たあの日の光景が浮かんでいた。あの舞台の上で感じた輝き、その後に続く無限の期待が、彼をどれほど苦しめてきたのか。そして今、病院のベッドの中で、桐谷はそのすべてを受け入れようとしていた。もう、何もかもが無意味に思えてきた。

周囲の人々の心配そうな表情が遠くにぼやけていく。彼の意識は、ゆっくりと深い闇の中に沈み込みながら、最後の息を引き取る準備を整えていった。桐谷は、もはや何も恐れなかった。ただ、あの地中にいた頃の静けさに包まれていきたかった。それだけが、彼にとっての安らぎだった。

そして、桐谷は静かに息を引き取った。彼の名前は、地上で一度だけ咲いた花のように儚く消えていった。その名が、彼を知る人々の記憶に残ることはあっても、桐谷自身の心には、もう何の意味も残さなかった。

桐谷が感じていたのは、最後の瞬間、静かに解き放たれる感覚だけだった。それは、長い間抱えていた重荷がようやく解けて、深い安堵の中に身を任せるような、穏やかな死だった。彼の中で、何もかもが終わり、ただ静けさが広がっていった。

再び地上に出る瞬間

桐谷は、死の間際に感じた静けさと安堵に包まれながらも、心のどこかで「何かが足りない」「何かを置き去りにしている」と感じていた。死の淵に立ちながら、その感覚は不安ではなく、むしろ彼を引き戻したいという微かな希望のように思えた。未練でも後悔でもない、ただ「やり直すチャンスがあれば、何かが変わるのではないか」というぼんやりとした期待が胸に芽生えていた。

その瞬間、桐谷は気づいた。時間が、まるでひとしずくの涙が流れるように、静かに戻っていることを。彼が目を開けると、そこはあの病院のベッドではなく、文化祭のステージの上だった。明るいライトに照らされた舞台に立ち、観客のざわめきが耳に届く。桐谷は混乱し、何が起こったのかを理解しようとしたが、同時にその違和感の中に不安ではなく、確かな希望の兆しを感じ取った。

「また、この瞬間が来たのか…」

桐谷は、あの時からすべてが始まったことを思い出していた。ステージでのパフォーマンスが、彼の人生を劇的に変えた。それが彼にとっての転機であり、そして同時に、無意識に「自分を輝かせなければならない」というプレッシャーが彼の心に重くのしかかった瞬間でもあった。その後、桐谷は次々と過剰な期待を背負い、無理に自分を演じ続けた。しかし、心の奥底で彼が最も求めていたものは、外からの評価や輝きではなく、内面的な平穏と、自分らしさだったのではないかと彼は感じていた。

桐谷は一瞬の迷いもなく、再びそのステージに立った。以前のように「完璧な自分」を演じることを選ぶのではなく、ただ自分の感じるままに、自然体でいることを決意した。観客の視線を感じつつも、その圧力を受け入れ、彼は心の中で静かに決心した。もはや「他人の期待」に応えるために自分を犠牲にする必要はない。桐谷は自分の心に従い、そのまま演技を始めた。

「自分の中にあるものを大切にしよう。」

その言葉が桐谷の中で響き渡り、彼は自分の心の声に従ってパフォーマンスを続けた。最初は不安でいっぱいだったが、その不安が少しずつ解けていくのを感じた。桐谷は観客の反応を気にすることなく、ただ自分の感じたことを、思ったことを、全力で表現していった。表面的な輝きや完璧さを求めることなく、自分の思いをありのままに伝えることで、桐谷はようやく「自分らしさ」を取り戻しつつあった。

パフォーマンスが終わり、桐谷は胸に温かい解放感を感じていた。会場が静まり返ったその瞬間、それは恐れや不安の静けさではなく、深い自己受容の静けさだった。桐谷は観客の反応を待つことなく、ステージを後にした。その足取りは軽やかで、以前のように「期待に応えなければならない」という重圧を感じることはなかった。

桐谷は、何かを求めるのではなく、ただその瞬間を楽しみながら歩き始めた。もう何も背負う必要はない。周りの人々の視線や期待に振り回されることなく、自分のペースで生きることができると感じていた。

それから桐谷は、あの時の自分を思い出しながらも、別の道を歩むことに決めた。これからの人生では、他人の期待に縛られることなく、自分らしく生きることを選んだのだ。桐谷は、誰かのために生きるのではなく、自分自身のために生きることを選び、少しずつ心の重荷を下ろしていった。

桐谷は歩きながらふと考えた。「これからは、どこに行くのかはわからない。でも、自分の心が望む方向に進めば、それでいいんだ。」

桐谷が進む先に待っているのは、まだ見ぬ未来だった。しかし、それでも桐谷は確信していた。これからは、自分の心が望む場所に素直に進んでいくことができる。その道がどんなものであれ、自分の歩みを止めることはないだろうと。

――完――

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