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ノアの箱舟2077:ふたつの未来

プロローグ:地球の悲鳴

海面が建物を飲み込むように押し寄せていた。かつての繁華街は波に飲まれ、ネオンの光は水底に沈んだ。ビル群の残骸が突き出るその光景は、墓標のようにも見える。都市は次々と崩壊し、数百万人が住処を失った。

空は暗灰色に染まり、稲妻が不気味な光を放つ。大気は毒々しい硫黄の匂いを漂わせ、どこまでも広がる嵐雲が地球全体を包み込んでいるようだった。雨は降り注ぎ続け、洪水となり、土砂崩れを引き起こしていた。

モニターに映し出されるのは、地球全土に広がる破壊の映像だった。シンガポールは完全に水没し、その名すら地図から消えた。ニューヨークは建物のわずかな屋上部分だけが海面上に顔を出していたが、それも潮の流れに呑まれるのは時間の問題だった。

「シンガポール消失、ニューヨーク浸水率98%、ロンドン都市機能停止、東京湾の浸水拡大中……」
無機質な声で冷静にデータを読み上げるのは、アーク計画を統括するAI「デウス」だった。画面には、地球上の危機的状況を示す赤いマーカーが増え続け、もはや「安全」とされる場所はどこにもないことが明確に示されていた。

ノア・カサハラ博士は、そのモニターを前に、拳を握りしめたまま動けずにいた。人類の科学と技術が築いてきたすべてが、自然の圧倒的な怒りの前では無力であることを、今ほど実感したことはなかった。

「地球はもう戻らないのか……」
ノアは独り言のように呟いた。その声には科学者としての冷静さを失った感情がにじんでいた。

背後から「デウス」の声が響く。
「博士、計画進行率は92%。残り8%のリソース確保が急務です。タイムリミットまであと60時間。」

ノアは椅子から立ち上がり、デウスの冷たい存在感に背を向けた。手のひらをこめかみに当て、深い息をつく。彼は地球を救うためにこの計画を始めた。だが、今やその計画が救うのは人類の一部、選ばれたごく少数の命だけだった。

「時間がないのは分かっている!」
声を荒らげながらも、自らを必死に抑え込むような言葉が喉から漏れた。だが、その声には苛立ちと後悔が入り混じっていた。

彼の胸を締め付けているのは、冷酷な現実と向き合う責任だった。自分が「救うべき命」を選び、その基準を設けるという行為。それは神にも等しい傲慢さを含んでいるのではないかという疑念が、彼を苦しめていた。

「選ばれし者だけを救うことに意味はあるのか?」

その問いが心の中で響き続ける。モニターには地球の地図が映り、赤いマーカーが脈打つように瞬いている。選ばれたわずかな命のために見捨てるしかない命。その数の膨大さを、ノアは直視せざるを得なかった。

「人類を救うために何を犠牲にすべきか……」
その問いに、デウスが答えることはない。ただ、冷徹なタイムリミットの報告が繰り返されるだけだった。

「博士、残り59時間55分です。」

ノアの視線はモニターに固定されたままだったが、その目には決意と疲労が交錯していた。「デウス、お前には分からないだろうな……」と、心の中で呟く。

外では、嵐の風が研究施設の窓を叩きつけている。その音がまるで地球そのものの悲鳴のように聞こえた。

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