蝉のように、もう一度①
あらすじ
桐谷優は日常に意味を見出せず、孤独と無気力の中で機械的に生きていた。大学生活も義務的で、人との深い関わりを避け、孤立した生活を送る。夜はネットの世界に逃げ込み、他人の楽しそうな生活に劣等感を抱くばかりだった。そんな彼の生活が一変したのは、文化祭のステージに立つことになった時。初めて人々の前で自分を表現し、他者と繋がる喜びを知る。
注目を浴びた彼はSNSを通じてさらに多くの人々と繋がり、孤独からの脱却を果たす。舞台を通じて新しい自分を見つけた桐谷は、地上の光の中で新たな人生を歩み始める。
地下の孤独
桐谷優は、日々を機械的に過ごしていた。朝、目を覚まし、大学の授業に出席し、バイトをこなし、帰宅してからはひたすら寝るだけ。何の変化もなく、ただ時間が流れていく感覚が彼を支配していた。大学生活が義務のように感じられ、目の前に広がる未来には一片の希望も見出せなかった。すべてが予測可能で、ただの繰り返しだった。
彼の部屋は、薄暗い四角い空間だった。窓の外に広がる通りには、いつも人の気配がなかった。歩道を歩く人々の影すら見えず、静けさだけが広がっている。たまに窓を開けて外を眺めると、遠くで車の音がかすかに聞こえるだけで、誰かと交わることはほとんどなかった。外の世界に興味がないわけではない。しかし、何かを始める勇気が、桐谷にはどうしても湧いてこなかった。
大学では、誰とも深く関わろうとしなかった。クラスメートとの会話は表面的で、必要最低限のことしか話さないようにしていた。友人を作ることは苦痛でしかなく、どこかでそれを避ける理由を探していた。バイト先でも、同僚と笑顔を交わすことはあっても、それ以上の関係には踏み込まなかった。彼にとって「人付き合い」とは、誰かと心を開くことが、大きな代償を伴うものに感じられた。誰かに期待されること、求められることが恐怖で、それがますます彼を孤立させていた。
夜になると、桐谷はネットの世界に逃げ込む。そこには、桐谷には手の届かないような世界が広がっていた。SNSにアップされた笑顔の写真、誰かの旅行記や楽しいイベントの報告。それらはまるで自分が置いてきぼりにされたような場所で、桐谷の胸を締め付けた。画面越しに流れる他人の幸福に、心の中で何度も自問した。「どうして、あんなふうに楽しそうに生きられるんだろう?」
彼の視線はその画面に固定され、他の誰かが光り輝いている瞬間を見続けていた。しかし、桐谷にはその中に自分を重ねることができなかった。人と繋がること、楽しむこと、それらはすべて遠くの、他人の物語のように感じられた。誰かが何かを楽しんでいる姿を見る度に、桐谷は「自分だけが取り残されている」と感じ、無力感が広がった。人と触れ合うことの喜びや、ただ一緒に笑っていることの楽しさは、桐谷には理解できなかった。ただただ、孤独が心を満たしていた。
彼はその孤独に、少しずつ耐えられなくなっていった。しかし、その感情をどうしていいのか分からなかった。桐谷は何度も、「これでいいのだろうか?」と自問したが、答えは出なかった。心の中にぽっかりと空いた穴が広がり、それが深くなるばかりだった。だが、ふとした瞬間に、桐谷はその空虚な中でも「何か」を感じていた。まるで、冬の土の中で芽が息を潜めているような、ひっそりとした感覚。
桐谷はその「何か」が何であるのかを、はっきりとは理解していなかった。しかし、心の奥底では、それが自分を変える力になることをどこかで期待していた。自分の中で静かに育ち続けるその「何か」に気づいてから、彼はその不安とともに、どこかでそれを待ち続けていた。それが何であれ、桐谷には、ただひとつだけ確信できることがあった。彼は、変わりたいと、強く思っていた。
彼が過ごす地下のような生活は、まだ完全に終わっていなかった。その「何か」が育ちきるまでは、桐谷はその静けさの中で、ひとり、ただ耐え続けるしかなかった。
地上に出た瞬間
桐谷が変わり始めたのは、予期せぬ出来事からだった。文化祭の準備が進む中、友人から急にステージに出るよう頼まれた。最初は断ろうとしたが、しつこく頼まれてしまい、ついに彼は「仕方ないな」と渋々参加を決めた。その時、桐谷にはその先に何が待っているのか、全く想像ができなかった。
彼が演じることになったのは、ほとんど即興のパフォーマンスだった。台本も何もなく、与えられた役はまるで桐谷にとって無理難題のように感じられた。普段の彼なら、こんな状況を避けていたはずだ。しかし、なぜかその時だけは、妙な衝動に駆られていた。内心で「逃げてはいけない」と、何かが彼を引っ張るように感じていた。
舞台の上に立った瞬間、心臓が爆発しそうなほどに緊張した。手が震え、足が重く感じられ、口の中が乾いていくのを感じた。それでも、桐谷は動けなかった。数百人の観客が彼を見つめているその視線が、まるで圧し掛かる重さのように感じられた。息が詰まりそうだった。しかし、その瞬間、何かが変わった。彼の中に、突然の覚悟が芽生えた。
「これをやらなければならない」
その言葉が、心の中で響いた。何かに引き寄せられるように、桐谷は足を踏み出し、舞台に立ち続けた。観客の目が一斉に自分に注がれ、時間がゆっくりと進んでいくような感覚に包まれた。桐谷の心臓はまだ鼓動を激しく打っていたが、その鼓動とともに、彼の体の中で新しいエネルギーが湧き上がるのを感じた。
そして、桐谷は自分でも驚くほど自然に演技を始めた。即興の台詞を口にする度に、どこからともなく声が湧き上がり、その声が観客に響いていくのを感じた。初めて、桐谷は自分の声が、そして自分の存在が、他の誰かに影響を与えているという実感を得た。観客の反応を受けて、彼の心はどんどんと解放されていくように感じられた。
「これが、僕が求めていたものだったのか?」桐谷は心の中で問いかけた。普段、他人と関わることが恐ろしいと思っていた自分が、今、他人と深く繋がり、共鳴し合っているのを感じていた。それまでの彼の人生は、まるで地下でひっそりと生きていたかのようだったが、今、舞台に立つことで、桐谷は初めて地上に出た気がした。そして、そこには暖かな光があった。
舞台が終わると、思いがけない反応が返ってきた。拍手と歓声が、彼を包み込んだ。桐谷はその音に圧倒されながらも、胸の中で溢れる感動を抑えきれなかった。観客の目線、笑顔、そして拍手。それらがすべて、桐谷にとって信じられないほど温かく、力強く感じられた。これまで感じたことのない「自分」がそこにいた。
その瞬間から、桐谷は自分が持っている「力」に気づき始めた。自分の声、動き、そして表現が、他人に影響を与え、共鳴することができるという事実。それは、桐谷にとって衝撃的な気づきだった。ずっと地下で生きてきた自分が、今、地上に立ち、世界と繋がっている。その感覚は、桐谷の中で次第に膨らんでいった。
桐谷はその瞬間、ただの一瞬の舞台の上で起きた出来事を越えて、自分がずっと求めていた何かを見つけた気がした。それは、表現の力、人々と繋がる力、そして何より自分の存在を証明する力だった。そして、その瞬間を境に、桐谷の中で何かが変わった。彼は再び地下に戻ることはなかった。地上に立った桐谷には、もはや引き返す理由がなかった。
フィーバーと期待
桐谷は文化祭のパフォーマンスを終えた後、その日の帰り道、心の中で不安と興奮が入り混じった複雑な感情を抱えていた。自分が舞台の上で感じた解放感は確かに特別だったが、それが本当に自分を変える出来事だったのかどうか、まだ実感が湧かなかった。しかし、数日後、桐谷はその文化祭のパフォーマンスがSNSで拡散され、あっという間に注目を集めていることを知った。
次々とメディアから取材の依頼が舞い込み、桐谷は突然、舞台上で輝くスターになったような気分に包まれた。彼のSNSのフォロワー数は急激に増え、その数は何万人、何十万人と膨れ上がっていった。普段は一度も自分に注目してくれなかった学生たちが、急に親しく声をかけてくるようになり、桐谷はその瞬間がまるで夢のように感じられた。最初は戸惑いと照れくささを覚えながらも、次第にその注目を浴びることで、彼の心に少しずつ変化が訪れた。
「こんな自分でも、みんなが僕を求めてくれるんだ」
その喜びと興奮に酔いしれ、桐谷は次第に自分が今まで感じたことのない新しい力を手に入れたような感覚に包まれた。SNSでのコメント、ファンからのメッセージ、インタビューでの賞賛。すべてが桐谷にとって新鮮で、胸を高鳴らせるものであった。彼は舞台の上で演じる自分をもっと多くの人々に見せたくなり、次々と出演依頼が舞い込むと、その全てに応じるようになった。
他の有名人たちと顔を合わせる機会も増え、桐谷はしばしば自分が彼らと同じような「世界」に足を踏み入れていることに驚きながらも、そこに心地よさを感じていた。最初は目を合わせることすら緊張していたが、次第に自信を持つようになり、彼は「自分らしさ」を発揮することができるようになった。
しかし、次第にその喜びの背後に、圧倒的な期待とプレッシャーが忍び寄り始めた。桐谷はメディアに出演するたびに、次々と新しい役を求められ、その役に没入することを強いられるようになった。ファッション誌の取材では、完璧なスタイルを求められ、トーク番組では笑顔で軽妙な話を続けることが求められた。桐谷はまるで、どんな時でも「輝く自分」を演じなければならないという強迫観念に駆られるようになった。
彼の心の中で、「本当の自分」と「みんなが期待する自分」とが次第に混ざり合い、見分けがつかなくなっていった。桐谷は自分が誰なのかを見失いかけていた。メディアに出演する度に、ますます新しい役に入り込む自分がいたが、その役を演じることが、次第に苦痛へと変わっていった。
そして、時間が経つにつれて、桐谷は忙しさに圧倒されるようになった。毎日のように予定は埋まり、どんどん増えていくイベントやインタビューの間を縫って、桐谷は休む暇もなく働き続けた。心の中で、少しでも空いている時間を求めたが、それでも次から次へと仕事が舞い込んできた。最初は嬉しかった注目と称賛が、次第に桐谷を縛り付ける鎖のように感じられるようになった。
「もっともっと頑張らなきゃいけない」「次に期待に応えられるように、もっと完璧な自分でいなきゃ」
その思いが、桐谷の中でどんどん膨れ上がり、ついには息苦しさを感じるようになった。彼はどんどん自分のペースを失い、ただ「期待される自分」を演じることに精一杯になっていった。周りの人々の期待に応えようとすればするほど、その重圧が自分を圧倒し、桐谷はだんだんと空虚な気持ちに陥っていった。
桐谷は心の中で何度も考えた。「これで本当にいいのだろうか?」と。しかし、答えは見つからなかった。周囲の期待に応え続けることでしか、自分の存在価値を感じられなくなっていた。それでも、桐谷はその「フィーバー」を止めることができなかった。なぜなら、今や彼の存在はそのフィーバーに支えられているような気がしたからだ。
――続く――