アリとキリギリス、そして春の道

1. 社畜の夏

山田は典型的な「社畜」だった。
毎朝6時に家を出て満員電車に揺られ、深夜0時過ぎに帰宅する生活。いつも同じスーツ、同じカバン、そして同じ疲れた表情。週末も仕事のメールを確認し、取引先への対応に追われていた。

それでも彼は、そんな生活に疑問を持たないよう、自分を納得させていた。
「これが大人としての責任だ。今は苦しいけど、将来のために備えなければ。」

老後のために少しずつ貯金し、さらに上を目指すために資格取得の勉強もしていた。夜遅く帰宅してからも、眠い目をこすりながら教科書とノートを広げる。その姿は、頑張る人間として称賛されるべきものだったが、誰も見ていなかった。

隣人の視線

そんな山田を、隣のアパートに住むキリタニは窓越しに見ていた。

昼夜逆転生活を送るキリタニが、部屋でゲームをしている深夜、山田が真っ暗な廊下を重い足取りで帰ってくる姿が、いつも視界の端に映るのだ。

「また今日も終電か。あの人、何が楽しくてあんなに働いてるんだ?」
キリタニはそんな独り言をつぶやきながら、エナジードリンクを飲んでゲーム画面に戻る。

キリタニにとって、山田の姿は不思議だった。そこまでして努力しているのに、山田から幸せそうな空気は一切感じられない。
「これが大人の生き方だって言うんなら、俺は絶対ゴメンだな。」

キリタニは心の中でそう結論づけながらも、どこかで山田に対する尊敬と軽蔑の入り混じった感情を抱いていた。

山田の心の隙間

ある日、山田は会社の同僚と居酒屋で飲んだ帰り、夜風に当たりながらアパートに戻った。その日は珍しく早く帰れた日だったが、彼の表情は沈んでいた。

「あの案件、結局上司に全部取られたな…。」
心の中で愚痴を呟く。山田は、どれだけ努力しても自分の仕事が正当に評価されない現実に苛立ちを覚えていた。

部屋に戻り、ベッドに倒れ込むように横たわると、天井をじっと見つめた。ふと頭をよぎったのは、「本当にこの生活に意味があるのか?」という疑問だった。

キリタニの観察

キリタニは窓を開けて夜の空気を吸い込みながら、向かいの山田の部屋に明かりがついているのを見た。珍しく、山田の影がデスクに向かっていない。

「どうしたんだろうな、あの社畜さん。」
興味本位でつぶやくが、自分から声をかけようとは思わなかった。

だがその夜、山田の窓から漏れるため息の音が、キリタニにはやけに大きく聞こえた。

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