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走れ!メロス①

あらすじ

メロスは、普段冷静な男だったが、朝食の焦げたパンひとつで激怒し、理不尽な命令を無視して王城を飛び出した。だが、怒りが収まるとすぐに冷静さを取り戻し、村外れで心の平和を感じていた。しかし、友人セリヌンティウスの命がかかっていることに思いを馳せ、冷静さを保とうとするものの、妹メロ子の必死な呼びかけに反応することはなかった。

妹の激しい怒りと村人たちの心配が続く中、メロスは自分の哲学的な思考を理由に動こうとしないが、次第に村人たちの圧力により強制的に走らされることになる。メロスは怠惰を貫こうとするが、村人たちの共同作業によってその態度を打破され、最終的には彼の決断が迫られる。

プロローグ

メロスは激怒していた。理由はささいなことだった――王の横暴な態度だとか、理不尽な命令だとか、そんなものではない。朝食のパンが少し焦げていたのだ。たったそれだけのことで、メロスの怒りが爆発した。普段、冷静でいられるはずの彼が、朝の食卓でふと顔を顰め、無言でパンを手に取った瞬間、何もかもが崩れ去った。焦げ目が少し濃かっただけなのに、それがなぜか彼の中で沸騰するような怒りを引き起こした。「こんなパンが食えるか!」と怒りに任せてテーブルをひっくり返したその勢いのまま、王の命令を聞いたときも「許せん!」と叫び、その場を飛び出したのだ。

普段なら考えもしないような些細なことで激怒し、勢い任せに行動するメロスだが、今回の反応はそれ以上だった。心の中に積もり積もった不満や疲れが、パン一枚の焦げ目によって一気に表面化したかのようだった。王の命令、村の中での小さな不公平――それら全てが、あの焦げたパンを見た瞬間に爆発した。だが、そんな怒りも、村外れの木陰にたどり着いたころにはすっかり消え去っていた。理由は簡単だ。怒りというのはエネルギーを消耗するのだ。そしてメロスはそのエネルギーをケチることで生き延びてきた男だった。どんな小さな争いでも、自分の気力を無駄にしたくないと心に決めているのだ。怒りの後、疲れがどっと押し寄せるのを知っているからこそ、無駄にエネルギーを使うことは避ける。怒るほどの価値があるのか、そしてその後どうなるのか――その点を考えたメロスは、瞬く間に冷静さを取り戻していた。

「……まあ、いいか」彼は肩をすくめ、草の上に腰を下ろすと大きく息を吐いた。木漏れ日の下、吹き抜ける風が心地よい。さっきまでの激しい感情がまるで嘘のように消え、心に広がるのは脱力感と平和だけだった。鳥のさえずりが遠くから聞こえ、風が穏やかに草を揺らすその静けさ。メロスはその一瞬を満喫し、心の中で再び余裕を取り戻した。自分の怒りの浅はかさに気づき、ふと笑みを浮かべる。だが、その余裕の中に、かすかな不安が忍び寄っているのも感じていた。あれだけ自信満々に「必ず戻る」と宣言したセリヌンティウスのことを思い出したからだ。

思い出したのは友人セリヌンティウスのことだった。あの場では、彼は自分に向かって力強く言った。「必ず戻る」と。しかし、今のメロスの頭の中では、それが何となく違和感を覚える言葉に感じられていた。「セリヌンティウス、どうして俺に頼んだんだろうな……もっと適任いるでしょ……」口の中でぼそぼそと文句をつぶやきながら、彼は草をちぎっては投げ、鳥のさえずりを聞き流す。友人の命がかかっているというのに、この余裕。そしてこの脱力感。これこそがメロスの本質であり、彼の生き様だった。彼は争いや痛みを避けることで生きる術を見出してきた。だが、今回はどうしても、セリヌンティウスのために動かなければならない。

そんな彼の様子を見つめていたのは、妹のメロ子だった。

妹メロ子のツッコミ

「お兄ちゃん、あんた何やってんのよ!」メロ子の声が木陰に響いた。鳥たちが驚いて飛び立ち、メロスは耳を塞ぎながら振り返る。「セリヌンティウスが今まさに死にそうなのよ! あんたが走らなきゃどうするの!」メロスは少し顔をしかめ、まるで思いもよらなかったという風に肩をすくめた。

「……いやさ、メロ子、冷静に考えてみ?」メロスは手をひらひらさせ、まるで落ち着いているのは自分だけだとでも言いたげだ。「王もさ、友人が走って帰ってくるかどうかで人を処刑するなんておかしいだろ? あれってさ、脅しとか演出の一環なんじゃないかと思うんだよね」メロスはそう言って自分にしか分からない理屈を並べ立てるが、メロ子の顔がますます険しくなる。

「演出って何よ! 王の悪趣味に命がかかってるのよ!」メロ子は声を震わせて言った。彼女の目は怒りで赤く、必死の表情を浮かべていた。セリヌンティウスが死ぬかもしれないという現実に、メロスの冷静さがどこか浮かれているように見えて仕方がなかった。

「いやいや、考えてみなよ。王が『処刑する』って言ったの、本当にそうするつもりか? ああいうのってただのパフォーマンスだって」メロスは冷静さを保とうとしているが、妹の必死な姿には心を乱される。

「そんな根拠のないこと考えてないで走りなさいよ!」メロ子は拳を握りしめ、顔を真っ赤にして叫んだ。その怒りをどこにぶつければいいのか分からず、思わずメロスにぶつけるしかない彼女は、今や完全に理性を欠いた状態だ。

メロスは肩をすくめてから、両腕を組んで少し考えた。「うーん、でも……今日はちょっと暑いしさ。夕方まで待ったら涼しくなるんじゃない?」と、今度は全く無関係な理由を挙げてみせる。まるで状況の緊迫感を気にしていないかのように、彼はのんびりとした口調で言った。

「気候の問題じゃないでしょ!!」メロ子の怒声が再び響き、今度はその声に驚いたのか、近くで羊を追っていた牧童たちが振り返る。パン屋のゴンザも、店先でパンを焼く手を止めて、あっという間に村人たちが集まってきた。メロスの不安そうな表情と、それに反する余裕のある態度に、誰もが疑問を感じたのだろう。

「おかしいのはお兄ちゃんの方よ!」メロ子は全身で怒りをぶつける。思わず彼女の手がメロスの肩をつかみ、必死で引き寄せた。「まさか、セリヌンティウスが本当に死ぬなんて考えてないわよね? そんな悠長なこと言ってる場合じゃないのよ!」

メロスは「おかしいって……冷静に状況を分析してるだけじゃん?」と、まるでその怒りが理解できていない様子で答える。だが、メロ子の目は、彼の一言一言をまるで無視するかのように見え、さらに気持ちが高まっていく。

「分析してる暇があったら走れって言ってんの!」メロ子はもう半ば泣きそうな顔をしている。彼女の目には涙が浮かび、セリヌンティウスの命が本当に危ないという事実を認めたくない自分との戦いに、もう耐えられそうにない。

その時、村人たちが集まり始め、メロスの冷静な態度がますます浮いて見える。村人たちもその様子を不安そうに見守り、誰もがメロスの態度に驚き、そして少しばかり苛立ちを覚えているようだった。

村人たちの乱入

「なんだなんだ? メロスがまたサボってるのか?」村人の一人が声を上げ、周囲の人々が一斉にメロスに視線を向けた。次々に人々の目が彼に集まり、誰もがその反応を待っている。メロスはそれに気づくと、無意識に肩をすくめた。「またって何さ! 俺、ちゃんと考えてるんだけど?」と、少し焦りながらも言い訳をする。しかし、村人たちの目は冷ややかだ。

「考えてる顔じゃないだろ、そのだらけたポーズ!」羊飼いのミレーヌが大きな声で叫んだ。彼女は肩にかけた羊飼いの杖を地面に叩きつけると、メロスを指差して言う。ミレーヌの一言に、村人たちの笑いが漏れる。しかしその中には、ただ笑っているだけでなく、心配や怒りが混じった目も見受けられる。メロスはその視線に気づき、少し背筋を伸ばした。

パン屋のゴンザが、いつもの無愛想な顔でパンを片手に歩み寄ってきた。「おいメロス、セリヌンティウスがどうなってもいいのか?」ゴンザの声には明らかな苛立ちが滲んでいる。その問いに、メロスは少し戸惑いながらも答えた。「いいわけないでしょ。でも、俺が走ることで解決するのかっていう哲学的な疑問があってさ」と、何か理屈をこねてみようとするが、ゴンザの顔には冷ややかな笑みが浮かぶ。

「哲学なんてどうでもいいんだよ!」ゴンザがパンを振りかざしながら、言い捨てる。まるでそれがすべてを語るかのように、そのパンの動きに力がこもっている。メロスは再び肩をすくめ、「いや、ちょっと待てよ、哲学って言葉使ってみることぐらい許してくれよ」と反論しようとするが、そこにさらに追い討ちをかける声が響く。

メロ子が顔を真っ赤にして叫ぶ。「そもそも、哲学って言葉使うような頭の切れる兄じゃないでしょうが!」と、彼女の怒りはもう抑えきれない様子だ。メロスは驚きと共に彼女の言葉を受け止め、「失礼な! 俺だってたまには考えるさ!」と反論するが、その声もまた村人たちには届かない。

村人たちが次々と集まり、メロスを取り囲んで、まるで取り調べをしているかのように質問を浴びせる。「セリヌンティウスを見殺しにするつもりか!」「走れって言われたら走るのが筋だろ!」「そもそもお前が『俺に任せろ』って言ったんだろうが!」その言葉一つ一つが、メロスの胸に重くのしかかる。だが、彼は自分の理屈を曲げるわけにはいかないと、両手を上げて村人たちをなだめようとする。

「わかった、わかったから! 怒鳴るのやめようよ、俺もちゃんとやるから……そのうち」メロスはすっかり疲れた表情でそう言い、手を振ることでその場を収めようと試みる。しかし、その言葉に反応したのは、村人たちではなく、妹のメロ子だった。

「そのうちじゃ遅いのよ!」怒りの頂点に達したメロ子が、地団駄を踏んだ瞬間、周囲の空気が一変した。その勢いに押されるように、村人たちの中から誰かが提案した。「よし、みんなでメロスを走らせよう!」その言葉が村人たちの間でどっと広まり、瞬く間に意見が一致する。メロスの目の前に立ちふさがる村人たちの姿が、まるで一つの大きな圧力のように感じられた。

「おいおい、ちょっと待て! 本気でそれを……」メロスは慌てて後退ろうとするが、すでに彼の周りには村人たちが一歩一歩迫り、逃げ場がなくなっていた。

メロス、強制的に走らされる

村人たちは、メロスの不屈の怠惰を打ち破るべく、真剣に作戦会議を始めた。その姿勢は、もはや一大事に挑む勇者のようだった。ゴンザが渋い顔をしながら、みんなに向かって言った。「まずは威嚇だな。奴に本気を見せる必要がある。」その言葉に村人たちは一斉に頷き、何か策を練り始めた。

「威嚇?」と一人が疑問を口にするが、ゴンザは一歩も引かずに言い切る。「そう、威嚇だ。まずは相手に『逃げられない』と感じさせなければならない。」彼は店先から焼きたてのパンをいくつか手に取り、村人たちに見せつけた。「パンで威嚇するの?」と誰かが笑ったが、ゴンザはまじめに答える。「いや、これを投げる。硬く焼きすぎたパンだから、当たると結構痛いんだ。」その説明を聞いた村人たちは、一瞬戸惑ったものの、すぐに納得の表情を浮かべる。

「痛いなら使えるわね!」羊飼いのミレーヌが目を輝かせ、声をあげた。「私の羊たちの出番ね。普段はおとなしいけど、走る相手を追わせたらピカイチよ!」その言葉に、村人たちは興奮し始め、次々とアイデアが飛び交った。

鍛冶屋のトンが豪快に笑って言った。「俺も参加しよう。金槌で後ろから追い立てれば、さすがに走るだろう!」その言葉を聞いて、みんなは一斉に目を見開いた。金槌を使うのは、確かに尋常ではないが、メロスを動かすためにはそのくらいの手段が必要だと感じていた。

こうして、村人たちの謎の連携作戦が、ついに始まった。作戦が決まると、すぐに動き出す。まずはパン屋のゴンザが一声叫ぶ。「メロス、いくぞ!」その声が響くと、メロスは驚き、振り返る暇もなくゴンザがパンを次々に投げつけた。焼きたてのパンが空を切り、メロスの頭に見事に命中。「いってぇ! 何すんだよ!」と叫びながら頭を抑えるが、ゴンザは一切容赦なく言った。「走らないお前が悪い!」その言葉が、ますますメロスの焦りを引き起こす。

次に、羊飼いのミレーヌが合図を送ると、まるで集団の意思を持ったかのように、羊たちの大群が一斉にメロスに向かって突進してきた。「ちょっ、待て待て待て! 羊相手に逃げるのは本当に嫌だ!」メロスは叫びながら必死に逃げるが、羊たちは容赦なく追いかけてくる。「それなら走るしかないわね!」とミレーヌが勝ち誇るように言い放つ。メロスは必死に足を動かし、羊たちの突進を避けようとする。

さらに、鍛冶屋のトンがその重々しい足取りで迫ってきた。手には巨大な金槌を握っており、その重さと威圧感にメロスは思わず身をすくませる。「次はこれが来るぞ! さあ走れ!」トンが大声で叫び、金槌を振り上げるフリをする。その振りの迫力に、メロスは目を見開き、全身に冷や汗をかきながら言った。「おいおいおい、金槌は反則だろ! 冗談抜きで怖いから!」その言葉に、村人たちはさらに盛り上がり、「走れ! 走らないと本当に危ないぞ!」と声を重ねる。

メロスはついに限界を感じ、これ以上は無理だと悟った。逃げるためには、走るしか選択肢がないことを、ようやく理解したのだ。

――続く――

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