リングの向こう側

第1章: きっかけ

桐島真奈(きりしま まな)は、都内の高校に通う16歳の普通の女の子だった。しかし、学校での毎日は決して普通ではなかった。真奈はクラスの中で目立たず、いつも隅に座っていた。人と話すのも得意ではなく、友達は少なかった。女子たちのグループからは無視され、しばしば無言で避けられることが多かった。時にはひどい言葉を投げかけられることもあり、その度に心が折れそうになった。

特に辛かったのは、体型を理由にからかわれることだった。真奈は小柄でぽっちゃり体型で、周りの女子たちからは「ぽっちゃり」とか「デブ」など、容赦ない言葉を浴びせられた。体育の時間や、放課後に行われる体育館での集まりで、その言葉は繰り返し真奈を傷つけた。

「また食べすぎたんじゃない?」
「そんな体型じゃ、運動しても意味ないよね」
「本当にダイエットした方がいいんじゃない?」

どれも冷たい、無神経な言葉だった。真奈は毎日が嫌だった。周りの視線が怖くて、笑うことも、話すことも、次第に億劫になっていった。

ある日、学校帰りに立ち寄った駅前のショーウィンドウで目にしたのは、ボクシングジムのポスターだった。カラフルなパンフレットに書かれている「あなたも強くなれる」という文字が真奈の目に飛び込んできた。その瞬間、何かが心に響いた。

「変わりたい。」
その思いが心の中で強く湧き上がった。ボクシングの道を歩めば、今の自分を変えられるのではないか。体型も、精神的な弱さも、すべて変わるかもしれないという期待感が、少しずつ真奈を勇気づけていった。

次の日、学校の帰りに真奈はそのボクシングジムの扉を押して入っていった。ドアを開けた瞬間、ジム内からは力強い音が響いてきた。拳がミットに打ち込まれる音、トレーナーの声、そして汗をかきながら戦うような緊張感が漂う場所だった。

そのジムで出会ったのは、若いトレーナーの木村健太(きむら けんた)だった。彼は見た目こそ普通の若い男性だったが、目の奥には情熱的な光が宿っていた。真奈が少し緊張しながら自己紹介をすると、彼は温かく微笑みながら言った。「お、来てくれたんだね。何をしていいか分からないだろうけど、まずは自分を信じてやってみて。大丈夫、少しずつ慣れるから。」

その優しさと、どこか頼もしい雰囲気に、真奈はすぐに安心感を覚えた。彼が指示する通り、基本的なストレッチやパンチの練習を始めると、体全体に力がみなぎるような感覚があった。最初は腕が重く感じたが、次第にその感覚が心地よくなり、真奈は少しずつボクシングにのめり込んでいった。

だが、ジム内には真奈が気になる存在がもう一人いた。それは、橘優(たちばな ゆう)という女性ボクサーだった。優はジムの中で一際目立つ存在だった。美しい容姿、スラリとした体型、そしてその優雅で力強いボクシングスタイルは、すぐに周囲の注目を集めていた。彼女はすでに大会で好成績を収め、ジムの中でも一目置かれる存在だった。

その優が、健太に対して特別な感情を抱いているのが、真奈にはよく分かっていた。ジム内での優のしぐさや言葉、時折見せる健太に向ける柔らかな表情。真奈はそのたびに心が少しだけ痛むのを感じた。優の存在は、彼女にとって新たな悩みの種となった。

健太は優に対して、常に優しく接していたが、真奈に対してはどこか冷静で、時折厳しさを見せることもあった。そのギャップに、真奈は時折戸惑うこともあったが、彼の指導に従い、少しずつ自信を持つようになっていった。

ある日、練習後に偶然、優と真奈がジムの出口で顔を合わせることになった。優は真奈に微笑みかけ、「あなた、結構いいパンチ持ってるわね」と声をかけてきた。その言葉に真奈は驚き、そして少し嬉しく思ったが、その直後、優の目にはどこか冷たい輝きが宿っているのを感じた。

「でも、健太さんにとっては、あなたなんてまだまだね。」
優は言葉を続けたが、その声には暗い響きがあった。真奈はその言葉が胸に刺さるのを感じた。優の言葉が単なる余裕の表れなのか、それとも何か隠れた嫉妬なのか、真奈には分からなかった。

その後、ジムでの練習はますます厳しくなったが、真奈は心の中で強く誓った。自分を変えるために、どんなに辛くても続けよう。そして、いつか健太に認められるようなボクサーになりたい。優にも負けないように、心の中で闘志を燃やしながら、真奈は練習を続けた。

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