何事にもだらだらとした言い訳は必要である
きっかけは一言の言葉である。
日本語で説明仕難い言葉である。
「人間不信なんだよね」
じゃないけど、そんな言葉。
ちょっと難しい言葉だったので
「え?なんて?」と聞く。
「前も言ったでしょう」と返される訳である。
「どうやって解決できるの?」
「時間しか無理だと思う」
脳裏に引っかかった。
はははって言う雰囲気でもない、
そんな軽い言葉でもない。
だから私はその場は流れに任せ後から
言葉の意味やその状態について、調べた訳だ。
便利な時代なので色々出てくる。
ネットもたまに嘘をつくのでに人間が必要になった私はbarでも聞く。
反応が
うーーーーーーーーーん。難しいねぇ。
である。
つまり決していい意味ではない。
人も違えばお国も違う、語彙不足及びアメリカ生活の経験不足により何故2回言ったのか?の真意が判らないのだ。
解答は本人にしか判らないが、私の日本での経験上、2回言うということは、意識的であろうが無意識であろうが、念押しである。
それは私に対してのものなのか、
彼自身に言い聞かせているのかは甚だ不明である。
私に対してであれば、牽制であるか?
それとも注意喚起であろうか?
そして何故?ループがスタートしまった。
ループし始めると他の思考までもがループに偏り
禅問答が自分の中で始まる。
コミュニケーションを辞めた方がいいのだろうか?
苦痛なのだろうか?
いやまて、早まってはいけない。
答えは彼が持っている。私には判らない。
人間の感情をぞんざいに扱ってはいけない。
今度聞こう。今度聞けるのか?否か。
さて、1つの問題を先送りにする事により
今度は自身のコミュニケーションについて疑問が沸く。
FacebookにラインにInstagramに。
何を其処まで私は友達にアピールする必要があるんだろう。
するとこれらのツールに費やしている時間が、急に無駄に思えてきた。考え出すと思考に囚われてしまう。
私はキャリアも捨て、生活も捨て、アメリカにわざわざ来て、友達を作りにきた訳じゃないだろう。
「俺、アッチでビックになってブラピに会ってくっから」
「私アメリカで、超イケメンのセレブ捕まえてくるから」
など気の触れた妄想を周囲に公言し、こちらに来た訳ではない。
ましてや、
"愛犬モコちゃんとのNY式ハッピーライフ”
を書きに来た訳でもない。
逸れたところで、結論が出た。
糞みたいな思考にぐだぐだと囚われてないで
暇ならさっさと仕事するべきだ。
で辞めるに至る。
その時間をKindleでダウンロードした読書に費やす。悩みの元である語彙も増え、一石二鳥である。凄く集中出来、私は結果的に非常に満足感を得た。
Facebookを辞めたという一行で終わる話である。
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