vol.036 記憶
1年ぶりに関東で1人暮らしをする母を訪ねた。
数年前から記憶が薄れていく症状を発症している母は、昨年よりも熱心に、忘れてはいけない情報を卓上のカレンダーと戸棚の内側に貼ってあるカレンダーに書き込んでいた。それでもやっぱり忘れてしまうので、私から伝えられることは、その都度くりかえし伝えた。
使い込んだカメラは塗装が禿げて味がでたり、長年愛用した壊れかけのラジオや扇風機は、トントンっと角を叩くと「よっこらしょ」と動いたりして、その頑張りを褒めたくなるものだが、人も長年生きていると道具と一緒で、壊れたり、キズがついたりしてオリジナリティが増していく。
母は、昔のことは意外とよく覚えていて、ワインを飲みながら教えてくれる。一緒に暮らしていた私の祖父は気難しい人で幼い子どもに対してもテーブルマナーなどのしつけに厳しかった。だからどことなく近寄りがたい人だったが、幼い孫宛にハガキを書いていたそうだ。母いわくそのハガキの内容がとても良かったらしい。祖父が私宛に書いてくれたハガキの束もあったらしいのだが、それは何処にしまったか忘れてしまい私が滞在していた間に見つけ出すことはできなかった。
戸棚から白い箱を取り出してきて「あきちゃんに見せようと思っていたの」と言いながら私たち姉妹や弟が幼かった頃の写真を見せてくれた。大事な物を入れてあるらしいこの箱には、母が学生だった頃の写真や祖母や祖父の写真の他アメリカで暮らす弟家族の写真、私の娘や姉の息子から送られたカードや手紙なども入っていた。
数年前から母を撮影している。
今回の関東滞在中に横浜にある小さなカメラ屋さんでドイツ製の2眼レンズのカメラを購入した。このカメラで最初に撮影したのは母だった。フィルムが現像所から戻らないのでどのような仕上がりになっているのかはまだ分からないが、楽しみに待っている。
少しずつ消えていく記憶を光と共にフィルムに焼き付け留めようという試み、一種のあがきとも言えるのかな。
私たち、姉や弟と写る母の昔の写真を見せながら母は呟く。
「あなたたちの番よ」
その言葉には、長い長い時間と記憶が詰まっていた。
【水野暁子 プロフィール】
写真家。竹富島暮らし。千葉県で生まれ、東京の郊外で育ち、13歳の時にアメリカへ家族で渡米。School of Visual Arts (N.Y.) を卒業後フリーランスの写真家として活動をスタート。1999年に祖父の出身地沖縄を訪問。亜熱帯の自然とそこに暮らす人々に魅せられてその年の冬、ニューヨークから竹富島に移住。現在子育てをしながら撮影活動中。八重山のローカル誌「月刊やいま」にて島の人々を撮影したポートレートシリーズ「南のひと」を連載中。