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vol.011 ただよう気配に言葉をのせて

沖縄本島北部にある本部港からフェリーに乗り、伊江島にやってきた。

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農地が延々と広がる穏やかな島を巡ると、自家製の登り窯で唯一無二のやちむん(焼き物)を生み出す陶芸家や、おばあたちが繫いできた文化を途絶えさせまいと「アダン葉帽子」の継承に尽力する編み手たちに出会う事ができた。

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そんな素晴らしい手仕事の数々に魅了されっぱなしの旅だったが、今回僕が取材していたのはこの方だ。

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セソコマサユキさん。

これを読んで下さっている方の中には、その名をご存知の方も多い事だろう。
当コラムが掲載される媒体「SQUA」の主宰者でもある、沖縄在住の編集者だ。

書籍の編集や執筆を多数手掛けるほか、SNSを通した情報発信にも影響力があり、インフルエンサーとして各地の講談に招かれているのを度々目にする。

また、イベントオーガナイザーの役割を担う事も多く、県外で開催されている「森、道、市場」といったイベントの沖縄出店者の取りまとめや、県内では「島の装い。展」の企画や運営もされている。

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僕自身、沖縄の物づくりに関わる店(Proots)の開業準備期間中などは、著書の「あたらしい沖縄旅行」を片手に県内を駆け回り、掲載のスポットから見聞を広げた。

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開業してしばらく経ってから、セソコさんが突然来店された時は「わ、あの本を書いた有名人だ!」といった感覚だった。

そこでご挨拶を交わしてから個人的な交流は無かったものの、Prootsとして日々SNSから発信する内容を見て下さっていたようで、イベント出店などに度々お誘い頂けるようになった。

そして昨年のコロナ第1波で店舗機能が停止し、途方に暮れていた時に「沖縄の物づくりに関わるコラムを書いてみませんか?」と連絡を頂いた。

来客が無く悶々とする日々にとても有り難かったと同時に、僕が言葉や文に興味を持っている事を、数少ない交流で見抜かれていた事に驚いた。

それから、僕が知りたいと思うつくり手を訪ねては記事にまとめ、「つくる手が、本当に触れたいもの」と題した連載コラムとして10話を重ねた。

掲載に当たっての添削などを含め、セソコさんとのやり取りが増える中で「セソコさんってどんな人なんだろう」と思うようになった。

イベントの打ち合わせや撮影現場、工房の取材、飲みの席など、様々な現場でご一緒してきたが、どんな現場にもリラックスした装いでふわりとあらわれ、静かな目線を配り、落ち着いたトーンで話す。

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初めてお会いした日から、安定感のある冷静な印象は変わらない。

そのいつもニュートラルな雰囲気故に、「実際のところ何を感じて、何を思っているんだろう」と掴めないでいたのだ。

そんなパーソナルな部分への興味ともう一つ。
「そもそも編集者ってなんだろう」という関心もあった。

様々な現場で幅広い職種の人と関わっている姿を見てきたが、その中で実際にどの様な働きをして、どのような思いで取り組まれているのか。

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このコラムの編集長でもある立場上、取材という形で話しを伺うのは相応しくないだろうかと気を揉んでいたのだが、訊くと「ああ、いいっすよ」と意外にもあっさり応じて下さり、ご自宅の仕事場だけでなく伊江島への出張にも密着させて頂ける事になったのだ。

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1977年、神奈川県に生まれた瀬底正之さん。

父親がNHK出版の編集者だった事もあり、幼い頃から活字が身近な環境で育った。物心ついた頃には、辞典並みの厚さがあるミヒャエル・エンデの小説「はてしない物語」なども読破していたそう。それ故か、小学生時代から国語が得意だった。

バスケットボールに汗を流した中学・高校時代を経て、将来の進路を思い描いた時に、得意分野を掛け合わせた職業として「スポーツライター」が浮かんだ。そこから「出版」に興味を持ち、編集を学べる専門学校へ進学。卒業後はカメラの専門誌を扱う出版社へ入社した。

そんなある時、「カメラ日和」という雑誌に感銘を受ける。

「おじさん向けの、マニアックでお堅い読み物」といったイメージが相場だった当時のカメラ雑誌において、オシャレな世界観で初心者や若い女性層にまで間口を広げた「カメラ日和」は革新的だったという。

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勤めていた出版社を辞め、カメラ日和を制作する広告代理店に再就職。

そこで、恩師である編集長の北島勲氏と出会う。北島氏の下で、日々取材や執筆に励む日々。最初のころは、原稿に赤ペンすら入らない状態で、門前払いされる事も少なくなかった。また、読者に届く「可愛い」や「素敵」の感覚が掴めずに、長年苦労した。

そんな中「自休自足」という雑誌の取材で訪れた、愛媛県今治市のパン屋「paysan」が忘れられないと話す。

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「家族経営の小さなお店なんですけど、みながとにかく楽しそうで。生きる事と仕事が直結しているその光景はとても眩しく映りました。最先端の情報や才能ある人々が集まる東京で働く事にステータスを感じていて『なんでわざわざ地方で働くの?』なんて思っていた僕にとって、それは新しい世界でした」

しばらくして、上司の北島氏が独立して立ち上げた「手紙社」の一員として働き始める。そこで企画や運営に携わった「もみじ市」や「東京蚤の市」などは年々ファンを増やし、今なお多くの人に愛されるイベントとして残っている。そんな環境にやり甲斐を感じる一方で、恩師の北島氏に甘えてしまう自分にどこか不甲斐なさ感じていた。

「編集者としてもう一歩前に進みたい」
ついに独立する決意を恩師に告げ、手紙社を去った。

これまでの仕事を通して地方に魅力を感じていた事、先祖のルーツが沖縄にあった事、またこれまでを支えて来られた奥様の意向などを踏まえ、フリーランスとしてのキャリアスタートは沖縄に決めた。

「ここから先は、自分の名前で生きていこうと。良くも悪くも全て自分の責任。そんな気持ちも込めて、カタカナ表記のセソコマサユキに変えました」

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移住してから1年ほど経ったとき、東京の出版社から連絡があり、カフェや工房の取材に取り掛かった。1日に2〜3組の取材を数週間続け、合計45組分の記事を約1ヶ月で書き上げる。そんな怒涛の日々を送り、ついに初の著書を完成させた。

それこそ先述した「あたらしい沖縄旅行」だ。
僕を含め、この本で「セソコマサユキ」を知ったという方も多いだろう。
 
それは話題性だけで店を選出したり、とにかく大量の情報を詰め込んでいるようなガイドブックとは一線を画す内容だった。様々なエリアから色んな業種を紹介していながら、全体にどこか共通した空気感が漂っている。切り取る写真や伝える文から、現場の「心地よさ」が伝わってきて、ゆったりと旅をしているような気分にさせられるのだ。

その後、離島版として「石垣 宮古 ストーリーのある島旅案内」も出版されるが、やはり一貫した視点に基づいて描かれてる。

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「店舗情報だったり住所みたいな『変化する情報』ではなく、取材した方々の人柄だったり生き様みたいな『普遍的な要素』を大切にしています。この本を10年後に手して、もし掲載の場所にその店がなかったとしても、取材した人のスピリッツは変わらず人の心を動かしますから」

そんな著書の反響もあり、セソコマサユキの名は徐々に知れ渡った。

新聞や雑誌のコラム執筆、商品の広告作成や会社のブランディングなど、地元の個人店から全国規模の大企業に至るまで、その感性を求めてオファーが舞い込むようになる。

「移住当初は、自宅で奥さんと小さなカフェをやりながら編集の仕事をするつもりだったんですけど、有難い事にあれよあれよと編集のご縁が広がって、今に至ります」

その活動は、外部からの依頼に応えるだけにとどまらない。コロナ禍で人と人が隔離され始めた時には「感性をシェアし合える、繋がりの場をつくりたい」とweb媒体「SQUA」を立ち上げたり、「島の装い。」と題したプロジェクトでは、実店舗やイベントを通してローカルの魅力を発信するなど、自らの思いを積極的に具現化し始めている。(今回同行させて頂いた伊江島は、当プロジェクトの実店舗オープンに向けた仕入れの出張でした)

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「本の読者やイベントのお客さんはもちろん、出店者同士の輪が広がったり、取材した記事をきっかけに素晴らしい縁が繋がったり、僕が関わった方の人生が少しでも良い方向に動いたら嬉しい。表面的には色んな事をやっているように見られると思いますが、実はどれも目指すものは同じです」

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そんな瀬底さんにズバリ「編集とは何か」尋ねてみた。

「実は編集ってみんながやってる事なんです。クローゼットの中から、今日どんな服を着て行こうか選んだり、数あるお店の中から今日のランチを決めたり、みんな自分の人生を編集している。ただ、それを自分の為にやってるか、誰かに向けてやってるかの違いだと思います」

編集は身近なものだとする一方で、こうも話した。

「僕の場合、相談者を正しい出口に導くのも一つの役割です。例えば、始めは『パンフレットを作りたい』という依頼でも、ヒアリングを重ねるうちに根本的に求めていたゴールが見えてきて、その解決策はパンフレットではなかったりもする。

ただそれで人に喜んでもらって、お金を頂くってのは簡単な事じゃない。僕はそもそもセンスがあると思ってないし、向いてるとも思わない。これまでのキャリアで培ってきた経験があるから形にする事は出来るんだけど、僕より感覚が優れた人をたくさん知っています。だからどの現場も、毎回必死」

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1つ1つの現場で、人と人との繋がりを大切にしながら、自分に出来る最大限で貢献しようと取り組むその姿を、僕のカメラは捉え続けていた。

今回の密着を通して、僕自身がその多くの肩書きやフォロワー数をフィルターに、人物像をぼかしてしまっていた事に気づかされた。

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そして、ずっともやががっていたその人となりや仕事については、取材中に聞いたこの言葉とともに、すっと晴れたのだった。

「美しいものだったり、心動かされることって、みなそれぞれ日常の手に届くところにあるはずなんです。でも忙しさだったり、心が何かに囚われていると、それに気がつけない。
だから僕はいつも、自分自身が豊かでいられる事を心がけているんです。

なんかこう、今この瞬間にふわふわ漂ってる音や匂い、差し込む光なんかをひっくるめて、そのうまく言葉にならない『なんかいいな』って感覚を寄り集めて、みんなにおすそ分けしたいだけかも知れません。

その作業はやっぱりすごく楽しいし、そこから生まれるものには価値があると信じています」

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島の装い。STORE





【萩原悠 プロフィール】
1984年、大阪に生まれ兵庫で育つ。京都の大学時代に宮古島を訪れ、その文化や風土に魅了される。卒業論文では沖縄の風俗について調査し、本島各地も巡る。
一度は企業に就職するも沖縄への思いを断ち切れず、2015年に「Proots -okinawa local goods store-」を開業。県内つくり手の様々なモノを通して、この島の魅力を発信している。


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