vol.012 シロと見上げた夕空で
「どこまでもあきんどでありたいんよ。横の繋がりより何より大切なのは、私を食べさせてくれる目の前のお客さんじゃけん」
岡山県出身の大野華子は、2018年に沖縄へ移り住み、宜野湾市内に2店舗の飲食店を開業した。
海を望む閑静な住宅街に佇む「ソウエイシャ喫茶室」では、ナポリタンやオムライスなど、昔ながらの喫茶メニューを様々楽む事ができる。白を基調とする店内にはアンティークの木製家具が並び、壁一面のガラス窓からは燦々と陽が差し込む。
一方、廃れた社交街の雑居ビルに佇む「月を詠ム」では、提供される食事は一種類のあいがけカレーのみ。薄墨の壁に控えめな灯りの店内には、泥岩を焼いて灰にした独特なオブジェが飾られ、サイフォンコーヒーを淹れる灯りが閑かに揺れる。
あまりに個性のかけ離れた両店は、確かにたった一人の女性から生まれた。
大野の故郷は、水島コンビナートと呼ばれる工業地帯。労働者向けのスナックや喫茶店が立ち並ぶ下町で、青果店を営む家庭の末っ子として誕生した。
家は貧しく、両親は常に働き詰めだったので、物心ついた頃から家事や料理を率先していた。青果店が百貨店への移店を試みた頃は特に経営難で、年の離れた兄は高校進学を諦めるほどだった。
「家ではほとんど口を開かなかったし、学校で本当に心を開けた友達は1人だけ。家も学校も居心地が悪かった」
そう話す彼女が唯一開放されたのは、下校後に飼い犬のシロと散歩をする時間。
まだぼんやりと明るい空にうっすら浮かぶ月を見上げていると、自分でいられる気がした。
長年の苦労の末、百貨店に進出した青果店は徐々に軌道に乗り始めた。
青果を扱う強みを活かしてカフェ事業にも参入すると、ユニークなメニュー展開がメディア各所に取り上げられ、みるみる知名度を上げた。日本全国に留まらず海外にも進出し、各地にファンを抱える飲食店として今なお発展している。
そんなカフェ事業の第一店舗目となる香川店を任された人物こそ、大野華子。若干19歳の頃だ。
高校卒業後はアパレル会社に勤めていたが、社長である父親から「うちでやらないか?」と誘いを受けたのだ。
両親の過酷な下積みを見て育った事もあり、家業に関わる事に抵抗を感じていたのだが、「カフェならやってもいいかな」と引き受けることにした。
会社として、そして彼女自身としても初の飲食業。さらに歳上しかいない現場を指揮しなくてはならない難しい環境の中、メニュー開発から店舗マネージメント、店内ディスプレイまで、店長として奔走を続ける。
「店を営む事」「人と関わる事」と真正面から向き合う日々に失敗を重ね、悩み、改善を繰り返しながらも、少しずつ自信をつけた。
そんな中、東京・銀座のファッションビルにオープンする新店舗の店長として、白羽の矢が立った。
24歳、小さな自負を握りしめて大都会へ挑んだ。しかし、これまでのやり方や人付き合いは全く通用しなかった。
スタッフにうまく任せられずに膨大な仕事を抱え込み、深夜まで残業。そんな日々に運営のパフォーマンスは落ち、それがさらに「ちゃんとしなきゃ」と大野を追い込んだ。
「東京では2年くらい勤めたけど、その期間の事をしばらくはほとんど思い出せなかった」と話すほど、感情が停止してしまっていた彼女の異変に気がついた家族が、地元へと引き戻した。
また、子宮がんが発覚し切除手術を受けるなど、20代に多くの痛みを味わった。
その後、父親が社長の座を退いた事や自身の結婚を機に、30代で家業を退職。
子供の喘息がひどく様々な療法を試みる中、「沖縄は喘息にいいらしい」と聞いた情報に、藁へもすがる思いで移住を決めた。
誰かに雇われる事は考えられず、「これしかやってこなかったし、私にはこれしか出来ない」と、飲食店開業へと進んだ。そして移住半年後には、「ソウエイシャ喫茶室」を開業させたのだった。
ソウエイシャ喫茶室をオープンして間も無く、世の中はコロナ禍へ突入した。未曾有の脅威に人々は怯え、外食からも遠ざかった。
「こんな時、ひとは飲食店に何を望むだろう」
友人とランチしたり1人でカフェを訪れたり、当たり前の喜びを奪われた人々が、蓋を開けた時に「わっ」とほころんでくれる様な弁当開発に着手した。のちに普及するテイクアウトスタイルだが、大野のいち早いアクションは、当時多くの心を掴んだ。
弁当を手にした方が店に感謝の手紙を持ってきたり、「共に頑張りましょうね」と声をかけて頂けるなどの反応が、ただ嬉しかった。
店が地域に愛され始めて安堵する一方で、一つの思いが芽生え始める。
「今までやってきた事で勝負しているのに、なぜもっと自分を武器にしないのか。世間に求められる事を読んで提供して、喜んで頂くのはもちろん嬉しい事だけど、それだけなら独立する前と変わらない」
知名度がついてきた「ソウエイシャ喫茶室」の名前はあえて伏せ、新たな店の開業へと進む。
新店舗をつくるにあたり、これまでのロングヘアをばっさりとオカッパに切り落とした。
これは貧しかった幼少期、父親に理髪店へ連れられていた頃の髪型だと言う。
「月を詠ムを始めてから、気付けば黒い服ばかりを着るようになっていたけど、思い返せば父も黒しか着ない人でした。父が寡黙な裏方の人だったのに対して、母はいつも明るく、誰からも愛される商売人の鏡のような人でした」
閑かな月のような父と、朗らかな太陽のような母。大野には2人の影が潜在する。
下校後にシロを散歩させながら月を見上げると、その時感じている事が文字として空に浮かんで見えていたそうだ。月を背景に心情を詠んでいた、その不思議な原体験から「月を詠ム」の店名は生まれた。
この喫茶店は普天間基地からほど近く、かつて米兵を相手に栄えたスナック街にある。
ふるさとに環境が似ていて、とても落ち着くのだと言う。
店内には誰かが「いいね」と言ってくれそうなものではなく、徹底的に「自分が心から求めるもの」だけを揃える。
読谷村で作陶する山本憲卓氏の器は、その一つだ。
「荒々しさとわびさびが同居する」剥き出しの素材感に惹かれ、月を詠ムオープン当初から使用している。
初めて工房を訪れた際には、非売品のはずだったクチャ(泥岩)を焼いた造形物に心打たれ、「これがないと店を始められない」と、強く頼み込んだ事もある。店で使う器に関しても、つくり手に直接意思を伝えて制作を願う。
「初めて工房を訪ねてきた時から妙に腹が据わっていたし、器を用途だけでなく物質や素材としてもちゃんと見てくれた。この人になら預けて大丈夫だと思えました」と山本氏は話す。
そんな関係のもとに生まれる器は、大野が絶対の自信でつくるカレーが注がれ、完成する。
「提案しきりたくて」一種類に絞られたあいがけカレーは、彼女がこれまでに培ってきた経験や感性が詰め込まれた一品だが、「これまでにどこでどれだけの時間をかけて学んできたかは、必ずしも重要ではないと思っています。自分の舌で試行錯誤を繰り返し、“美味しい”の方程式を明確に持っている人こそが、美味しいカレーを作れる。そして私のカレーは美味しい。これで駄目だとしたら諦めがつきます」と話す。
「自分がやっている事は最高にかっこいいと思っているけど、それが受け入れられるかは別のこと」と言うが、月を詠ムの空席を待つ行列が、白昼のスナック街に伸びる事は珍しくない。
時代や風潮は読まず、ただ月を詠んだ頃の自身に向き合う。大野が運営する店のSNSにおいては、不安や怒りのような感情までを包み隠さず、ありのままに、彼女ならではの言葉で綴っている。
一見商売とはかけ離れて見える姿勢だが、結果としてそれは強烈な個性として映り、「変わった店だなあ」「ここの店主はどんな人なんだろう」「もっと知りたい」と興味をかき立てる。
もちろんこれは誰にでも出来る事ではなく、看板を出さないこと然り、メニューを一択にすること然り、そのリスクを超越する覚悟と自信、感性や魅力がなければ成り立たない。
月を詠ムを開業する以前から、最も長く近い距離で支え続けるスタッフの桃原氏は、彼女について「いつも全力で生きている人」だと教えてくれた。
「くだらない話しをし出したら、ほんと人一倍くだらない事を言うし、笑っても泣いてもいつも本気。2人の子供を育てながら2店舗やって、忙しくて眠れてないはずの日でも仕事は完璧にこなす。僕には到底真似できないです」と。
そんな大野の心には、また新たな想いが芽生えている。
「駄目になってもなお愛でる、その精神が美しい」と言う金継ぎや、染めの世界について学び始めていて、いずれそれらを自らの手で伝えていきたいそうだ。アトリエのイメージはすでに頭の中に出来上がっている。
より内側へ。
より「自分自身」の純度を高めていく。
それこそ「あきんど」大野華子の進む道なのだ。
月を詠ム
【萩原悠 プロフィール】
1984年、大阪に生まれ兵庫で育つ。京都の大学時代に宮古島を訪れ、その文化や風土に魅了される。卒業論文では沖縄の風俗について調査し、本島各地も巡る。
一度は企業に就職するも沖縄への思いを断ち切れず、2015年に「Proots -okinawa local goods store-」を開業。県内つくり手の様々なモノを通して、この島の魅力を発信している。