”上質な生活”とごみ
ここ数年日本に帰国する度、強く思うこと。
そんなにパッケージ、いる?
洋服の包み紙やプラスチック、買い物袋、雨が降った時買い物袋にさらにかぶせるプラスチック。
日本で何かを1つ買うたび、その倍の量のごみがでることにここ数年とても違和感を覚えている。
そんなことをふと思いだしたのは、久しぶりにこの本を手に取ったから。
彼女たちはそろって育ちがよく、みんな僕の著書「生活はアート」の読者であり、自分の信じる仕事には一生懸命打ち込めるし、意識だってそれなりに高い。ところが、こと相手がゴミとなると、「生活はアート」はおしまい。理想もおしまい・・・。
花をアレンジすることは価値があること、ゴミをだすことはそれとは別、美学も他人への敬意も衛星も、すべて忘れてしまう別世界のこと。
しかしゴミというものは、消費社会の無意識そのものです。
僕にとっては、花をアレンジすることとゴミをアレンジすることには、なんら違いはないのです。
誰かに贈り物をするときに美しい包装紙で着飾ってあげるのを別にすれば、自分が日常で使用するものや洋服はそこまで過剰包装しなくてもいいのではないかと私は思っていて、最近は何かを買っても「そのままで結構です」と言って渡してもらいます。
現在オーストラリアでは2大スーパーマーケットを始め、様々な場所でプラスチックの買い物袋を廃止しているため、常にエコバッグも持ち歩いています(ちなみにコーヒーのカップやウォーターボトルも持参)
そろそろ自分自身の便利さや手に入れるものの価値だけではなく、手に入れる時発生するゴミ、使用して処分する時のことを考えてもいいんじゃないかな。10年前初めてこの本を手に取った時はあまり意味がわからなかったけれど、最近はパトリス・ジュリアンの言うようにゴミをどう処理するかまで考えている消費者こそ上質な生活をしている人だと、しみじみ思います。
日本には風呂敷という素晴らしい知恵もあるのだし、見た目だけの”質のいい生活”ではなく、消費の裏にあるゴミに対しても意識が変わっていけばいいな。
(ちなみに、こちらではBYOといってレストランに自分でワインを持っていけるのですが、その時に風呂敷が大活躍しています。日本人からも粋と褒められる。風呂敷もっと広まって欲しいな〜)