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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第五十一回〉

二〇二四年六月一二日

 明日。というかもう今日。母親が韓国に来る。入国審査までの手続きをすべて説明することはできないので、詳細がまとめられた記事を送信した。それにもかかわらず、一切読まぬまま色々と尋ねてくる。イライラする。とはいえ気をつけてきてほしい。
 なんと今日も働いた。今週に至っては週2日出勤なのにウジウジしながら出勤。昼ごはんは会社で出前をとってくれて、料金も支払ってくれる。ありがたい。だが、その日勤務している職員全員と一緒にご飯を食べなければならないのがかなりの苦痛。出勤1日目は自分に質問が飛んでくることを覚悟していたが、それでもかなりの疲労感と緊張に襲われて吐きそうだった。
 今日はまったくの不意打ちだった。出勤初日以降、私が無口な人間であることが知られて、積極的に話しかけられることは無くなった。ほっとした。しかし母親が韓国に来るため土曜日出勤を休むことを知っている社長が、食卓でその話を出した。元凶だ。そこからいくつも質問されたのだが、ほとんど聞き取れない。英語でいうところの「How old are you?」くらいの会話なのに聞き取れない。返答も辿々しくなる。動悸も激しくなって、視線の動きが止まらない、言葉も出てこないし、自分の顔が見えないはずなのに目の前に見える感じがして、目の前の職員と自分の顔が重なっている。ご飯吐きそう、失禁しそう。体から何もかもが出てきそう。聞き取れなかったところは聞き返して、なんとか会話を繋いだ。すると「韓国語うまいね」と言われる。これは下手だという意味だろう。社長が「友達は?」と聞く。私は人間関係においては繊細なので、この先の展開を想像して滅入っていた。十中八九、「韓国に友達はいるかどうか質問して、私の語学力をはかろうとするものだろう。いると答えれば、その友達との馴れ初めにシフトして雑に会話は続くが、私は実際友達はいないので、友達作りなよとか言われる。友達作れば韓国語上達するよとか言われんだろうな」とコンマゼロ秒で想像した。数分後、「韓国人の友達つくったら、語学力すぐ伸びるよ」と言われた。まあ、勉強してないし言われても仕方ないかと思ったが、余計なお世話にも程がある。「それはわかってますけど、難しいんですよね」とだけ返答して、昼ごはんは終わった。
 でもおかしい。私って「How old are you?」レベルの韓国語はぜったい聞き取れたはず。そう思って、一緒に掃除しているおばちゃんに自ら話しかけることでいくつかの会話を生み出した。うむ、普通に会話できる。できている。おばちゃんは早口だし、現代でも使用するが発音が少し古めかしい言葉もたまに使うが、それでも大きな齟齬はない。
 帰宅して、韓国語学習者上級者向けのリスニング動画を検索した。聞き取りテストで実力をみようと思ったのだ。うん、9割10割ほど聞き取れる。 
 昼のあれは精神的ストレスからきた齟齬だったらしい。そこまで検証してみて、(ああ、自分って日本語でもあれくらい喋れないことあるな)と思い出した。友達は作るものという感覚がいまいちわからないな、気がついたら居る、あるいは友達だと自分に対して宣言するような関係ではないのか。わからないな。あの人たち、ずっと何言ってたんだろう。
 今日は、バンドリとクイズと単語帳作成と《三次角設計図》テキストデータ作成を行なった。一応作業は進められた。一頁分進んだ。時間がかかる作業だなあ。

二〇二四年六月一五日

 6月12日〜15日にかけて母親が韓国に来た。韓国では複数人で食卓を囲む文化が日本よりも根強く、繁忙タイムに一人客は稼げる金額も少ないため一人で入店できない店もある。母親が来たことにより複数人になった私は、普段行けないような店でご飯を食べることができた。ほしいものもいくつか買ってもらった。靴とか。ボロボロで、下宿先では洗えないのでどんどん臭くなっていたためずっと買い替えたかったのだ。滞在二日目に靴を探した。靴紐がないタイプの靴を探していた。私はうまく靴紐が結べないのでそれにこだわっていたのだが、何軒か回っても見当たらない。疲れたのでその日はリタイアして、また暇ができたら探すことにした。
 翌日、たまたま近くにABCマートがあったので入店。やはり靴紐なしの靴がなく、靴紐なしの靴があってもデザインや履き心地がいまいちの商品ばかり。ついに、「靴紐なし」の条件を諦めることにした。そうするとやはり世界は変わるもので、あっさり良いスニーカーを発見した。靴紐があるのは非常に残念なままだが仕方ない。満足もしている。履き替えることを楽しみにしながら、そして今まで苦楽を共にしてきた靴へ名残惜しさも感じながら、靴を抱えて退店。すると母親が言った。

「あんたってさ、ほんまにお金の使い方なってないよな。こんなさ、ABCマートで買い物してさ、偽物かもしれんやん。何が売られてるかわからんやん。それやったらちゃんと専門店行って買った方が良かったんじゃない?…って今思ったわ。」

私はしばらく沈黙して、

「なんで今そんなこと言うの?言って、わしにどうしてほしいの?」

 それまでは母親に多少苛立つことはあっても、向こうもそれは同じだろうと思い、我慢してきたけど、こういう時間が来るのはなんとなく予感していた。そこから母親の怒涛の説教タイムが始まった。韓国の若者タウン・弘大のど真ん中で、延々と怒られる。なるほどな、と思う部分もあるけれど、そのほとんどは韓国滞在中の記憶や発言が無茶苦茶に入れ替えられており、私が一言も言ってないこと、していないこと、話していないことを勝手に解釈して何やら怒っていた。母親としては、腰や足、目の疲労を私が全然労っていないこと、連れ回されていると感じたことも原因なのだろう。私は私で、母親がまだまだ元気な体のままだと思っていて、目の疲労もどの程度がわからなくて、同年代の友達を連れて歩くような気持ちでいた。第一、疲れて何かこちらに求めることがあるなら意見してくれるだろうと思っていた。そんな私に母親は「察してよ!」と怒っていた。他にも色々言っていたけど、ただただ攻撃の意図が感じられて、精神的にも体力的にも辛い時間だった。「韓国に来るんじゃなかった」とまで言わしめた。
 私と母親は一生こんな感じなのだろう。私が「起こったこと、言ったこと、言ってないこと」の事実確認をしながら話を進めようと質問したり、訂正する行為を見て、母親は「理詰め、屁理屈、そんなんだから人の気持ちがわからないんだ」と怒る。感情によって事実確認が難しくなる。一方私は、事実確認がないと、人に共感することは不可能なので母親が求める類の”共感”にたどり着けるまで時間がかかる。
 母親にとって、両親にとって私は待ち侘びた子供だったらしい。一人っ子で、裕福な家庭ではないけれど何か我慢を何度も強いられるようなこともなかった。よく育てていただいたなと思う。しかしあんなに丹精込めて育てたのに、ほかの子とは違う点があまりにも多く、変わっていて、人の気持ちがわからなくて、何を考えているかわからない、望んだ人間ではなかったらしい。これまで言葉の節々から「なんでこうなっちゃたんだろう」を感じて生きてきた。それに対して私が思うことは一つ。可哀想。
 母親に育ててもらった。ばあちゃんにたくさん面倒をみてもらった。中学生で初めて授業と塾をサボって、ライブハウスに行った。好きなバンドを追いかけて、Twitterにどハマりした。高校で現代社会の先生とパソコンの先生、二人の良い先生に出会った。ひとりぼっちだったけれど、高校で同じクラスの子を好きになった。本を読んだ。漫画も読んで、映画もたくさん観た。大学なんか、数えきれないほどの苛立ちも経験したし、自分なんか本当に何者でもないと打ちのめされるような人にも出会ったし、どうでもいいやつにもたくさん出会った。これがなければもう死んでるだろうなという、私の命を首の皮一枚つなげた出来事もあった。たくさん、いろんなことがあった。母親はそのほとんどを知らない。母親は衣食住を金銭的に支えてくれたけれど、それ以外の部分ではどうだろう。
 母親が怒るときは9割8分怒られ続けて、何か訂正するために私が少し話す程度だ。その時に「なんでこんなんになったんやろう。もうちょっと普通の生活をして欲しかったわ」と言われたときに、「その態度は傲慢。お母さんが知らない人や経験が私の中にもある。全てを親が育てられるなんて大間違いや」と、確か言い返したことがある。「でも学費払って〜〜」と金銭的援助の話にすり替わったので私があの時発した「傲慢」という言葉の強さに母親は気がついていないし、おそらく忘れている。
 まあ、私もたくさん非があるし、忘れていくことで幸せに向かえるならそれでいいと思うけど。
 母は土曜日に帰国し、日曜日の休みは私は泥のように眠った。
 作業は何も進んでいない。

二〇二四年六月一七日

 昼12時に起床。《三次角設計図》のテキストデータ作成作業のつづきを少しだけ進める。昼ごはんを食べて、また作業を少し進めつつ映画も観た。少し寝て、映画を観に行った。エドワード・ヤンの「恐怖分子」を鑑賞。やっぱりエドワード・ヤン作品って素晴らしいな。人が言葉を語らずとも、モノや光、空間の中に自然発生するフレームを、カメラのフレームによって見出す。それが映像の言葉になるもんだなあ。
 韓国にまできて、友達一人できないなんてと親にもバイト先の人にも揶揄されたけれど、エドワード・ヤンの作品を観たあとの私はなんだか人間として背筋が伸びていた。大半の人の意見なんてのはどうせテキトーにしゃべってるんだから、私がみている世界を私がちゃんとみよう。友達なんかできて韓国での生活が充実していたならば、私は6月時点での映画鑑賞本数100本は超えられなかった。映画は好きだけれど、あまり気分じゃない日もある。それでもみる。今の自分には、映画をたくさんみることが必要事項な気がするからとにかくみる。
 他者に寄りかからず、内なる精神に耳をすませ、自分の城を築いて生活してきただけで、もう十分に素晴らしかったのではないか。もっと、自分を褒めてあげてもいいんじゃないかな。
 

 

二〇二四年六月一八日


 また掃除のおばちゃんと口論。どちらの仕事がどこまでかという議論。私の仕事を手伝ってくれれば良い場面で、おばちゃんがスルーするようになったので私もそれを真似ていたら怒られた。
 こういう場合は、こうしましょうと必死に提案して打開策を決めた。それなのにまた拗ねて、今まで好意で手伝ってくれていた仕事も辞めると言い出した。それに関しては感謝していたけど、拗ねるのは違うだろ!と思い、おばちゃんのあとを追いかけて「怒ってますよね?それは違うでしょ」と言って、また議論を試みる。おばちゃんは比較的ずっと文句を言ってくれる方だが、私がそれをねじ伏せるように話すと聞いてくれる。ある意味甘えさせてもらっている。私は、なぜおばちゃんが拗ねるのがおかしいかを説明し、自分の何が問題だったかをあげ、おばちゃんの何が問題だったかをあげ、謝罪し、手伝ってくれていたことに「ありがとうございます」と言い、今まで通り手伝って欲しいことは「引き続き手伝ってくださると嬉しいです」といい、ふたたび打開策を念押ししておいた。
 最後に「誤解が多かったですね」と私がいうと、「誤解じゃないよ!」とまた厳しい口調でいうので、「誤解じゃないですか!」と言い返して仕事に戻った。けれど、帰る頃には普通に話した。私が持ち歩いていたはずのスペアキーをおばちゃんが持っていたのにかかわらず、「持ってない」などというので「やー!ここにあるじゃないですか!」と笑って腕をしばいた。一緒に帰る道では、客室にあったいちごミルクをもらい、「ちゃんと持って帰りな」と渡してくれた。コーラだけは私にも聞かずに持って帰るけど、興味がないと優しく渡してくれる。
 おばちゃんは常時イライラしているし、心の狭いことを平気で言ってくるし、注意も多いので嫌いと言えば嫌いだ。うるさい。けれど、私が韓国で出会った人の中ではもっとも可愛らしい人間だ。口論になって、私が拙い韓国語で意見してもそれなりに根気強く聞いてくれる。自分に非があれば謝ることはなくても頷いて聞いてくれる。何より私が意見するということを許してくれる。聖人君主でも親切な人間でもないけれど、齟齬があればとりあえず話をしてみようと希望をあたえてくれる人物だ。怒りを何時間も先に持ち越さないのも美しい。この仕事は、おばちゃんがいることによって続けられている。他に続けられる理由はない。だが何度もいうが好きではない。
 帰って、ご飯を食べて、映画をみて、作業日誌を書いて、今日は終わりだ。爪をきれいにして、パソコンのキーボードにハングルのシールを貼った。これでハングルでのタイピングも数段スピードアップするだろう。 


二〇二四年六月一八日
 

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