定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第三十四回〉
そろそろ早くテキストの確認作業を全部済ませて、印刷して再確認しないといけない。
1931年 鳥瞰図
1931年 三次角設計図
1933年5,6,7,8,10,11,12月掲載 巻頭言
机の前に座って、気がついたら時間が経ってる日が続いていて、全然進まない。多分、資料調査は少し進めていたと思うが、具体的には覚えていない。その間、何をしているのかあんまり覚えていない。記憶が曖昧な仕事の整理もしなくてはならない。
自室の密室空間で一人ということも怖いし、テキストを確認して多くの誤字脱字やサイズの不一致がみつかったらどうしよう、どこからやり直せばいいんだろう、どの精神状態まで戻されるんだろう、どうやって奮い立ってたっけーまたおんなじようにできるかな、体がバラバラになってしまうかも、いやまさか…という不安もある。
また、印刷するとき韓国語ちゃんと出てくるかなあ、というか印刷するまでの道で車に轢かれたりしないよな、大丈夫かなあ、などなど生活の中にひそむ悩みのあれこれを考えてできていない。そうこうしていると「できない理由を探しているだけだろー」と怒鳴られて、すみません違うんですほんとなんですと言い返してしまい、またヒートアップの無限ループ。「お前手動かせよ」と肉体を動かしてる方のモウリもそう思う。わかる。けど・・・。これ以上よくわからない声にさらに怒られる前にやろう。本当にやろう。
後輩の論文に感想を書いて渡そうと思ったけどできなくなっちゃった。ゴメンネ。
明日は図書館が定期休館日。私は外出してカフェかどこかで作業しよう。定期券の回数も早く使い切らないといけないので、そうするのが良い。カフェでわざわざ水にお金払って、作業するなんて馬鹿馬鹿しさ極まれりだが、部屋にいると背中がじとーっと濡れてきて、誰かが真横でずっと見てる気がする!というような、確実に何かしら病名つくような状態なのでお外に行きましょうモウリさん。水に金払って、精神の安定を少しだけ買いましょうよ。
今のこれ。自分の精神状態を公の場所で完全に表現してしまうと完全に世界から置いてけぼりにされてしまうのではないかという恐怖心から、距離をおいて描出している感じのこの文章もすごく嫌い。マジなんなのこのクソ文章。こんなん書きたくないのに。
じゃあわたしは何も書いてない。何も書いていないとしよう。書かれなかったことばのために書いていない。書かなかったことばの中で、書くしかない。それしか、本当に自分の精神世界と現世をつなぐ方法になり得ない気がする。でも私はそれを今まで無意識的にやってきたし、できてしまっていた。でもそれが方法だと気がついてしまった時点で、方法が実践になってしまう。これはよくない。なので、いったん忘れてみる方がいい。書かれなかったことばを書く寸前でとめるように見るためには、忘れて、世界と自分の界線をなぞる作業が必要。距離をおいて書くのではなく、書くことで距離を測るようなやり方の方がきっといい。それができたら、書かれなかったことばにもちゃんと役割をあたえることができるはず。こんなこと書いてたらLINEで友達に「完全にテキストを再現するのは無理でしょ」とメッセージが来た。即刻スマホをぶん投げた。そうか。無理という漢字、四角がいっぱいあって怖かったな。そうかできないか。友達の君がいうのかその言葉を、と少しがっかりするが、よく考えてみればこの作業の不可能性とその内実なんて私が日々晒されまくっていることだったので気に病む必要はない。かつ、自分と元ゼミ担当の教員以外の人間は編纂作業に対して平気で私の精神をワンタッチで瓦解させる一言を投げてくる。そのことに対して覚悟していたはずだったがうっかり忘れていた。耳を貸してはいけない。
この世の何よりも自分の身体性の方が信じられる。
大丈夫、きっとうまくいく。なるようになる。
明日は水に金を払う。そして散歩にも出かけよう。
これまで怖い怖いと言いながら作業を進められていない自分のことは許せなかったけど、明日印刷までもっていけたら許してあげられる。ただ、無理だったらもう知りません。
二〇二四、一月、二一日更新、執筆
(ちなみに今回の全集編纂作業において、私がなぜこんなにも精神的・肉体的に追い詰められているのか自覚済みかつ言語化可能な状態にある。だからと言って摘出できもしないが、いつかどこかで真剣に書けるきがする)