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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第三十九回〉

 そして私が韓国に来た理由の中に、最上級で重要なものがもう一つある。    それは「定本 李箱文学全集」を註解した教授に会うことだ。


 先生にメールを送信したのは2024年1月31日午前9時半ごろのことだった。一月中にはメールを送信しようと心に決めていた。本当は30日に送ろうと思っていたが、勇気が出ないことを言い訳したくなくて、他の作業をわざと遅くして、メールが送れないようにした。

 31日はバイトだった。生活用品を買わなくてはいけないけど、たった20分の帰路なのに人混みに疲れてしまい、駅ホームのベンチで休んでいた。するとスマホの画面をただ眺めていたら、Gmailの通知が来た。先生からだった。17時頃のことだった。

 私は、返信が来ないと思い込んでおり、運良く来たとしても一週間はかかるだろうと思っていた。それは先生の人格を勝手に想像しての憂慮ではなく、ただなんとなく、最大の関門というものは時間も労力も忍耐も必要だからという経験則から覚悟をしていた。来たメールを人混みの騒々しさと疲労に紛れて読んでしまわないと、余計に緊張すると思って即刻読んだ。


 先生は

「はじめまして。連絡をくれてうれしく思います。あなたが悩んでいることは、私も常に悩んでいるところで、今も、研究を続けています!」

とのことだった。私は、対峙する相手を過度に大きく考えてしまう癖があるので、頭の中では『魁!!男塾』の江田島平八くらい圧があって、中身は『DEATH NOTE』のLくらい聡明で近寄りがたい雰囲気溢れる先生だと思っていたので、文面の物腰の柔らかさに驚いた。「!」とか使うんだな。
そして返信が来たことに対して、舌を噛み切りそうな喜びを感じる。相当賢い方に違いないけれど、文面からして『バガボンド』の上泉伊勢守みたいな感じかな!だとしたら人としてめっちゃスキ!と思った。

 返信が来たこと自体が嬉しかったので帰り道、コンビニで大きめのオレンジジュースを買った。韓国に来てよかったことって質問されたら、迷わずこの出来事を挙げたい。


 先生は近々論文発表をしに、ソウル大に来られるとのことだった。私は二つ返事で先生の論文発表に行くことを伝えた。2月17日が初対面の日だった。


 その日までに準備しないといけないことが突然増えた。自分の卒論の翻訳作業、『朝鮮と建築』に掲載されていたテキストデータを完璧に仕上げること、先生への質問事項をまとめること、先生に意見することを整理すること、私の全集計画を簡潔にお伝えする準備、資料調査の現状報告準備、「かたちにこだわる」という立場の妥当性を主張する準備…あとは思いつく限り色々。優先順位を立てながら、そして説明が必要なものはマインドマップを作って進めた。論文の翻訳は結局全然間に合わなかった。精神不調が続いていたが、それをその時々でなんとかしながら準備を進めた。何を、どうやってなんとかしたのか覚えていないので書くこともできない。またしても記憶がない。

 そんなこんなで17日になった。


 会場にはほとんど一番乗りでついた。20000ウォン払わないといけなかったが、先生の面会料だと思えば傷は浅い。先生の顔を知らないので、きょろきょろしながら論文発表会の開会の辞ギリギリまで先生と話すための準備をしていた。

 先生の発表はトップバッターだった。発表会場となる部屋は二部屋に分かれていて、先生は小さい方の部屋で発表することになっていた。

 先生が発表の席についたとき、初めて先生の顔を知った。姿勢も良くて、清潔感が溢れている。大学ホームページに掲載されている若い頃の面影はあるが、より洗練された優しそうな雰囲気が出ていた。白髪が混じっているものの老いている感じがあまりなくて、ずっと頭をフル回転させて言動を選択しているような第一印象だった。

 韓国の学会的なものに何度か参加したが、日本と違って、発表者と質問者と司会が前方に並んでいる。質問者はあらかじめ論文や著書などを読み、質問を十分に準備してくる。聴衆はその質問内容をあらかじめ配布された質問用紙から確認できる。質疑応答時間は設けられるが、基本的には発表者と質問者のトーク形式で進行されて、聴衆が質問する想定はされていない。そのため、発表後に発表者をつかまえて話すのが通例っぽいとみた。すべての発表後に「交流時間」という謎時間が設定されているケースはそのためだと思う。

 今回、発表時間は15分で、発表論文の内容の長さ(全発表の論文集がもらえた)をみるに超短時間の発表で進行していくらしい。うわ〜…ぜったいできないなこういうの…卒論の中間発表も、最後の発表も全部ミスったしな…と過去の過ちに打たれていたら、先生の発表ははじまった。

 論文や質問用紙などは一切見ず、頭の中にある材料だけで話し始めた。先生の今回の題材は李箱のテキストではない。李相和(1901-1943)という作家のテキストに登場する「목거지(意味:複数人が集まって会合をしたり、祭りするなど、何かを行うこと)」という言葉の変容とその解釈を整理するのが大まかな筋だった。澱みがなく、堂々としている。私の卒業した大学では、大学のロビーに教員から卒業生へのメッセージがずらっと並んでいた。私のゼミの先生は「堂々としなさい」と書いていた。一つ上の先輩らの卒論発表の後、私のゼミの先生は「しなやかな自信をもってください」と言っていた。コロナ対策のためzoom配信だったその年、私は廊下でその言葉を盗み聞きしていた。目の前にいる先生は、そのどちらをも態度で表明していた。これってどうやるんだろうなあと思いつつ、現在までの自分の選択に自信も何もなく、関心と欲望だけで歩んできたことに改めて気がついた。大学で先生が言っていた言葉を実践してみたいけど、死ぬまで一回でもそういう”感じ”になれたらいっか、と諦めた。なぜなら「お前の人生って一言でいうとどーなの?」って聞かれたら、私は真っ先に「まあ、恥しかないよね」と苦笑いすると思う。空き缶が落ちていたら拾ってゴミ箱に入れるのと同じで、空き缶を追いかけていたらここまできて、そしたら空き缶をここまで追いかけた私が空き缶にタッチできるまで追いかけるしかないよね?という感覚で研究しながら、ここに、今居る。韓国語の合間に飛び込んでくる雑念は多かったが、論文を読み込んで臨んだ発表だったので、話が早く難しくてもギリギリ理解できる内容でほっとした。


 二人分の発表が終わると休憩に入った。パソコンを閉じてすぐ先生にところに行こうとすると、先生がいなかった。帰っちゃったかな、と思いつつトイレに行った。別に行きたくもないトイレから帰ってくると、先生がちょうど教室の扉を開けるところだった。

「모우리 씨예요?(モウリさんですか?)」

「あ、あ!네!(はい!)」


 覚悟ができていないときに、いつの間にか清水の舞台に立たされている。

 ちょっと待ってください!と言って、名刺と書類を取りに行く。話せるのは休憩時間だけだと思い、プレゼンの準備を頭でザザザっと行いながら自己紹介していると、

「ちょっと外で話しましょうか」

と先生が言ってくださった。


それから先生とソウル大の中にあるカフェで話すことになった。

先生は標準語ではなく釜山とか大邱の方の訛りがあると話しながら気がついて、聞き取れるか不安なままキャラメルなんとかコーヒーを奢ってもらった。

タイマンが始まる。


二〇二四年、二月二九日、執筆。二〇二四年、三月二日

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