定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第四十四回〉
風邪をひいていた。
作業しなければいけないとわかっていたし、日誌をもっと更新できるように!と意気込んでいた矢先のことだった。
喉には棘のある植物がずっと寄生して呼吸するたびにそよそよと動いている感覚があって気持ち悪い、下宿の廊下の匂い、自分の部屋の匂い、隣の部屋のご飯の匂いや服の匂いなども直接脳に届いて痛みにつながる、腰も反対方向に曲げたら折れそう、自分がパスタの、あの細い一本になった気分。そんなだから精神衛生状態も良くはない。
作業をしなければならないとわかっていたけど、とてもできない。できても集中できる状態ではない。なので、寝るか映画を観るかの日が続いた。一番酷い日は、喉の植物が気持ち悪くて呼吸が余計に早くなったり、胃液を吐くためにトイレに行ったり、冷や汗、悪寒が止まらなくて、症状に疲れて寝落ちした。次の日は、完治を目指して何もしないようにした。結局、映画を3本みた。そのうち、「牯嶺街少年殺人事件」を観ようと思ったけどどこでも配信されていなかった。7時間くらい映画をぶっ続けで観るくらいには、自分の内側から外へアウトプットするのが苦痛だった。
今は70%くらい治ったので、こうして日誌を書こうとしている。
そういえば、《異常ナ可逆反應》のテキストデータをまた編集していた。一段階目では、韓国国立中央図書館に所蔵されている、『朝鮮と建築』の影印版の計測データをもとにテキストを配置してきた。二段階目では、一段階目で使用していたフォントをやめて、テキストごとにフォントを自作することを決断したので、フォントの置き換え作業を行った。その置き換え作業により少しだけデータに寸法のズレが生じたのでまた微調整をした。そして今は三段階目。もっと簡単にできる方法を思いついた。韓国国立図書館所蔵のデジタルコレクションにて『朝鮮と建築』も確認できる。著作権が消滅した書籍や雑誌は家でも閲覧・保存が可能なのだ。そのデジタルデータを下地に置いて、上から薄く透けたデータを作成し、配置していくのだ。以下のように。
影印版では、原本と影印版の紙サイズが変わっている可能性は高いものの、テキスト同士の間隔比率が変わることはまずないだろう。そんなことがあったら、影印ではないのだから。
そしてこうして、ピタッと揃える。揃えて、最後は原本の誌面サイズにデータを調整する。
作業はこれでだいぶ時間短縮できる。計測作業から完全に逃れられるわけではないけれど、線をなぞるように配置していく作業なので、人為的なミスは減らせるかもしれない。
「「「なんでこんな簡単なこと、一番最初に気づかなかったんだよ!!早くやっておけば!!計測であんな!!あんなしんどい思いすることなかっただろ!!」」」
とめちゃくちゃに怒られる声があったけど、こんな簡単な作業を私が考えなかったわけがないのだ。考えた。選択肢にあったけれど、選ばなかったのだ。
計測作業は、10時くらいに図書館について、テキストに定規を当てて計測しながらIllustratorのデータに反映させていく。これをひたすら閉館時間まで行う。眠くなったり雑になったりすることもあるから、ハッ!とした時に全部やり直し。測っても測っても人為的な作業にすぎないから、二日もすれば自分が計測して作成したデータを信用できなくてまた計測したくなって、余計時間がかかる。テキストを「読む」とか「味わう」ことから遠く離れて、線や点を見て”かたち”を再構成する作業だから、平仮名片仮名漢字、どれもバラバラの線にみえてくる。帰り道で見かける文字も、全て線や点としてしかみえず、自分が言葉を話せる人間だったのか定かではなくなる。という、生活が毎日。
この経験が、無駄なわけがないのだ。私は、テキストの”かたち”を再現するための苦労を一度すべて味わっておかないといけないと考えたから選んだのだ。「なんでこんな簡単なこと、一番最初に気づかなかったんだよ!」という罵声に落ち込んでしまうなら、私は真剣にテキストと向き合っていなかったという証拠になってしまうだろう。
そうでなくてよかった。安心すらした。改善の過程をみている。まだ苦労したい自分もいるけど、それに応えながらも効率の良さも求めていこう。
第三段階の方法に気がついてすぐ、作業に取り掛かった。
特に思うことも、反省することもなく、ただ取り掛かった。
データは、金先生にも送信し、労いの言葉をいただいた。
次は、金先生が出版された「증보 정본 이상문학전집 1:시(増補 定本 李箱文学全集 1:詩)」(金宙鉉註解、소명출판、2009年)の《異常ナ可逆反應》の注釈批判作業を完成させて、送信すること。そして、《鳥瞰図》のテキストデータ作成をすること。
三段階目にたどり着いて、私はまた別のところにもたどり着いてしまった。
何かやるべきことを毎日淡々とやって、特に何か大それたことを考えたり、感じなくてもいいからとにかくやり続けて、たまにその”淡々とした日々”の背中を撫でてあげるように振り返る。するとのちに、何があっても、誰かから(無駄なことをしたね)と言われても、「無駄なわけがない」とその時に生きていた自分と日々と成果が勝手に応答してくれる。そこに現在の自分が何かを言おうとする必要はなくて、ただ、次、来る日に備えていればいいのだ。
二〇二四年、五月三日、執筆、更新。