定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第三十八回〉
韓国に来て4ヶ月が過ぎた。特に早いとも思わない。
年末くらいから気持ちが落ち込み気味で、落ち込んだまま作業を進めるということが多かったが、今は少しだけマシになった気がする。
現在も資料収集を行い、できるだけ原本か影印版に近いものを探し求めて韓国のあちこちをウロウロしている。
韓国に来て1ヶ月過ぎたあたりで「この資料調査ってわざわざ韓国に来てしなくてもよかったかもしれない。私が韓国に来た意味なんてなかったかもしれない」と最悪の考えで日がな一日自分の身体を舐め回していた時期があった。しかし4ヶ月経った今、冷静に返答するなら
「確かに日本国内にいても資料収集は可能。だが難しい面も多い。
日本国内では資料が関東や関西などあちこちに散らばっているケースが多く動きにくいうえ、交通費と作業に必要な時間その地域に滞在する必要性も生じる。ところが韓国ではソウル市内で大体の資料を確認することができ、原本はなかなか閲覧できなくとも影印版くらいまではなんとか閲覧できるケースが多い。また一般人入館不可の大学図書館でも資料取り寄せくらいはできる。よって金銭面、効率面から見ても韓国で調査を進める方がスムーズだ」
ということ。
そのうち原本を見られる機会は殆どないが、つい三日ほど前、李箱のテキストにおいて初めて原本に接触することができた。所蔵場所はソウル大学中央図書館保存書庫2に所蔵されている『文學思想』(文學思想社、1976年)という雑誌だ。この雑誌には、李箱の発掘遺稿が掲載されており、そのテキスト点数は10点。李箱の客死に対して寄せられた追悼原稿や、李箱が描いた挿絵なども確認できた。私が閲覧したのは、『文學思想』の何ヶ月か分を一冊にまとめた冊子で、ソウル大内で製本されたのだという。しかし作業者や作業年月日の詳細は不明だった。形態は変わったが、原本であることは間違いなかった。
一般人の私でも印刷が許可され、素手で触ることを許された。この調子ならテキストの計測作業もいくらか進められそうだ。
こうして原本に遭遇したときのことをいつだか夢にみていた。その時が来るときを心待ちにしていたはずだが、実際の私の反応は(あ、そうなん、これ原本かそうかOKOK)くらいの気持ちで、次の瞬間にはもう淡々と印刷作業を進めていた。やらねばならない作業があると感動などなく、何かを感じている時間が無駄だと本能的に思っているのかもしれない。つまらない人間だ。
だが、かるく定規をあてがってみたときは少し心臓が高鳴った。
まったくもってうまく計測できそうになかったから。
原本は、日本で刊行されているような文藝雑誌と似た分厚さ。その紙束はどこもかしこもやけており、破けている箇所も少なくなかった。またページの端がごわごわして、反り返っている箇所もあるが、通読には問題なさそうなので、比較的保存状態はよかったのだろうと想像した。
かるく定規をあてがってみただけだが、ページ端がしゃんとしていないと(この数値は正確なのか?)(信用に足る数値なのか?)と何度も目盛りを確認した。何回測っても不安になるあの感覚が戻ってきた。
かたちを再現するといっても、こうして50年近く経過した書物はもうすでにかたちを変えはじめている。目盛りで判定してかたちを数値で固定しても、この原本固有のかたちを再現するのは難しい。それどころか刻一刻と変化するかたちは、”掴めそうな瞬間”しか存在しないのだ。
印刷の読み込み中テキストが照らされて読み込み終了。次のぺージをめくって、また原稿ガラスに本をおこうとすると、茶色い粉や紙切れがポツポツ付着している。書物という物質を変えているのは、今、この私の手だった。書物に人が介入したとき、われわれはお互いにかたちを変えているのだろうか。
かたちを再現するという行為をすればするほど、かたちからは遠ざかる。しかし宣言すればするほど原本にまた違った経路から近づくことができる。私は道に迷ったり疲れたり仲間をうしなったり、辞めたくなった時はまず、ただこの言葉と行為を繰り返そうと思う。それ以外にない気がする。
そして私が韓国に来た理由の中に、最上級で重要なものがもう一つある。それは「定本 李箱文学全集」(소명출판,2009)を註解した先生に会うことだ。
今日はここまで。
二〇二四年、二月、一九日、執筆、更新。