定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第四十二回〉
ここ二週間毎週、金先生とzoomで連絡を取っている。新学期が始まるのでお忙しいだろうに有難い。
私は最近何をしているだろう。
基本的には資料収集、資料整理、文献学や書誌学に関する勉強、フォント作成作業をしているだろうか。一日が終わるのが驚くほど早い。
〈資料収集〉
資料収集の方針を大きく変えた。
原本にこだわっていたが、原本を所蔵している大学は一般の入館すら厳しく、学生に賄賂を渡して調査協力を依頼するほどお金もないので、デジタルデータと影印版だけでも集めている。確認できた原本もあったが、万が一私がソウル大の偉い教授に成り上がったとしても原本に接触して自由に作業することは難しいという経験を自分の足で稼いだ。そのあたりは、日本の大学の方が一般人に書物がひらかれているといえる。デジタルデータ化作業はとんとんくらいか、あるいは韓国の方が若干上手。大学ごとにデジタルコレクションが構築されているのは見事である(全大学ではない)。
「デジタルデータと影印版を優先収集」という方針に変えてからは、資料集めが驚くほどスムーズに進んだ。あと3作ほどが未収集の状態で、そのほかは収集できた。
〈フォント作成〉
この作業は非常に疲れるのでサボりがち。テキストのフォント一文字一文字のフォントを作成する。「異常ナ可逆反應」には「異常ナ可逆反應」のフォントを、「建築無限六面角體」には「「建築無限六面角體」のフォントを作成する作業だ。
同じ雑誌に掲載されていたテキストでも、フォントが異なる場合があるため、一文字一文字注視して「フォントを作成する必要があるか」判断しなければならない。
日本語は特に苦労が多い。漢字、平仮名、片仮名の三種類に分かれている上に、「二」「ニ」のように似た文字が存在するため混乱も多い。
テキストデータを印刷して、作成したら印をつけて作成したら印をつけて作成したら印をつけての繰り返しである。
ハングルは母音と子音の組み合わせによって構成される文字であるため、母音と子音さえ一度作ってしまえば楽だ。
まだフォント作成中なのでなんとも言えないが、一つ懸念点がある。
「フォントも自作しよう」と決断するまえに寸法などを調整済みテキストデータが完成している。それに後付けで自作のフォントを適応すると、寸法が全てズレてしまう可能性だ。フォントは手作りのため、フォントのデフォルトサイズが、完成テキストデータで使用していたIllustratorにインストールすれば使えるフォントのデフォルトサイズと異なる可能性がかなり高い。怖くてまだ比較していない。それだけはなんとか避けたいのでひと段落したら向き合いたい。現在は、「異常ナ可逆反應」の平仮名と片仮名のフォントは完成し、漢字に取り掛かっている途中だ。
〈先生との作業〉
フォント作成や資料収集をしていると一日があっという間に終わる。
先生と一緒に作業していることは今のところはないが、これから先生から技術を盗むためにも私に任せられる作業は任せてほしい。手伝いたいとも言ってある。その際、私がやらなければならないのは、先生に対して「私自身の価値証明を”実物”で見せること」だ。
私は先生ではないので、先生にとって定本作業がどれほどの重要性を有しているか知り得ない。しかし私が、
「この資料を見たんですけど、落丁して…」
と言いかけたあたりで
「そうでしょう、ソウル大の資料は見た?」
と相当早い応答をみるに、もう重要か否かではなくライフワークになっていることは想像できる。
そんな先生が、半端な奴に仕事を任せるわけがない。
なので私は「自分が何をできるか」の証明ではなく、「先生や定本作業にとってこのような利用価値がある」と実物として評価してもらわねばならない。会話や質問で鋭さをみせてもダメだ。
やはり私や先生の相手は”書物”であり、私もその”書物的な振る舞い”をするのが真っ当な戦い方だと思う。その振る舞いの中で自分らしさをどう工夫するか、が遊びの部分。
よって、先生が註解された「定本 李箱文学全集」に収録される日本語詩の異本校訂作業と、註釈批判作業を徹底的に記述して送ろうと思う。
怖いね。
今後は、文献学や書誌学、註釈学、書物学、文化資源学、編集文献学、書誌学などの分野をまず独学でやる必要がある。フォント作成の作業も重要だが、自分の研究分野に没頭して、学問の文脈からひたすら遠く離れたところに行って完結するのは自己満足に思える。だから勉強する手を止めてはいけない。
例えマウスで拡大しても見えない文字の深層に潜ったとしても、それを書物学の歴史や文献学の歴史の線上に紡げる方が、その研究は永く保持され、誰かに見つかる可能性も高くなるのではないか。これは「かたちを再現した」全集を多くの人が必要としない中で書籍をどうプロデュースするかという話に直結していくだろう。
韓国はもう氷点下になる日は来ないだろう。
最近は、ばあちゃんと家族で行った日吉のパン屋さんをよく思い出す。日吉の温泉に行く道中によって、私はその店のハムチーズクロワッサンが大好きで二つは買ってもらって、紙パックの美山牛乳と一緒にたべた。朝早くに出て、まだ日が昇りきらないうちに着くパン屋はいつも寒さの記憶と共にあったが、店内にある暖炉が格好良くて、ばあちゃんもその店が好きだったので、寒さの記憶は思い出してもすぐ消える。ばあちゃんがいないままパン屋に行くのは、記憶が欠けたままにその記憶を辿るようで怖いけれど、また行ってみたい。
1936年、李箱が東京にいたときも、こんなふうに故郷のあまい記憶がよぎっては、もう少し此処でやらねばならない意地とせめぎあった瞬間があったろうか。そうなら私が救われる。
二〇二四年、三月、一四日、執筆。
二〇二四年、三月、一五日、更新。