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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第四十六回〉


二〇二四年五月一二日

 朝5時就寝、昼1時起床。
 5時まで作業をしていたので、自分を怒るようなことはしない。
現在は、「鳥瞰図」のテキストデータを再制作中。
李箱のテキストには「鳥瞰図」と「烏瞰図」の二種類がある。
韓国で出版される幾つかの全集では、題目を混同して掲載する例があるため、丁寧に注釈批判しなくてはいけないなと考えながら手を動かした。

 しかし原文資料をトレースしながらテキストデータを制作するとき、
なんでこんなにも胸がざわざわするのだろう。いつも何かに追われていて、早く、早く、綺麗に終わらせないと、でも、ミスもしてはいけないよな、、あああ、あああああああ!という感じが絶えず襲ってくる。

 淡々と手を動かしながら、絶叫しそうな自分を抑えるために音楽やラジオを流している。そうして凌ぐ私を、腕組みしながら壁にもたれて眺めてくる誰か。怖いよなあ。

 李箱文学会の論文募集がまた始まった。多分、研究発表会もあるだろう。
でももう行かないかもしれない。私は、李箱の面白さを誰かと共有したいわけではない。理由はまた別にある。


二〇二四年五月一三日

テキストのかたちに関する批判点をまとめて、キム先生に送った。それが数日前の出来事。
今日のバイト中、ふと携帯を見ると通知にはキム先生の名前があった。重要なメールの可能性もあるので、すぐにメールを読んだ。
要約すると「かたちばかりに集中しすぎているのではないか。デザインや絵ならそれは理解できるけど、詩や小説の場合そればかりに集中する必要があるのだろうか。それよりも、韓国語から日本語、日本語から韓国語に翻訳する際の意味伝達にどのような差異があるのか?を考えた方が良い気がします。」とのことだった。

先生に会いたくて初めてメールを送ったとき、先生にはじめてあったときにも、「私はなぜ、テキストのかたちにこだわるのか」を説明してきた。そして、かたちばかりではなく、もちろんテキスト書誌情報に関する正確性などテキスト周辺に生じる諸問題についても言及するつもりでいた。もちろんそのことも伝えた。
しかし、伝わっていなかったらしい。先生が忘れているだけなのか、覚えている上でこういう内容を送ってこられたのか判断しかねたが、とにかく、深い孤独感に覆われた。忘れる程度のことだったのか?理解しているフリだったのか?色々考えた。
研究の先輩ができたと思っていたが、結局一人だったらしい。

私はその夜、2000字を超えるメールにしたためた。
私の研究内容に関する前提の共有はできていると思い、批判点の書き方へ配慮が足りなかったこと。そうは言っても、「テキストはかたちあってこそだ」という私の立場を変更する気はないということ、先生の助言は正しいが、私はもともとそうするつもりだったと以前から伝えていた、安心してほしいということを書いた。最大限、平易な言葉と配慮をもって書いた。怒りも感じられるが、冷静を保とうとする人間らしい文章になっていた。

先生は、李箱のテキスト研究において第一人者だと言える。その人物に、私が韓国に来た理由であり研究の根幹である部分をいま、「必要ないんじゃない?」と言われているわけだ。普通ならここでやめたっていい。(先生がそういうならもうちょっと考え直した方がいいかも…)と肩を落として、反省するのかもしれない。だが私の状態はもっと図々しかった。先生が私の話を理解できていなかったか、私の伝え方が悪かったという思考にまず至り、言葉を尽くす選択に行き着いた。やめるとかやめないとか、頭に浮かばないのが面白くて笑った。そして怒りと説得の2,000字に。
次の日、送信した。
私は、これまでの人生、これからの人生においてどれほど「相手との関係に大きな傷をつける可能性を孕んだ文章(主張)」をぶつけるのだろう。数えきれない。人と比較してもあまりに多い気がする。体が熱くてなかなか寝付けなかった。


二〇二四年五月一五日

昨日の夜、友達と電話して10時間寝た。
ドーナツの動画を見てしまって、ドーナツが食べたくなった。
観ていなかったぶんの朝ドラを見ながらご飯を食べる。先生からメールが返ってきたが、返信が難しくてしばし逃げの行動をとった。夜中には送ろう。


「簡単に返しすぎて、誤解を生じさせてしまった。謝る必要はない。」という内容の連絡がきた。
ひとまず関係決裂に至らなくてよかった。先生は「その情熱が羨ましい」と言ってくださったが、別に情熱ではないと思う。へー、これ情熱なんだ。
防御でしかない気がするけど、どうなんだろう。なんて返信しよう。

6月に母親が韓国に遊びにくるので、航空券をとった。往復3万円以下。
みんな韓国においで。


二〇二四年五月一八日

光州事件の追悼記念式典に参加するため、光州に一泊二日の旅。
モーテルが韓国ではラブホテルを意味することを知らぬまま予約してしまい、望まぬラブホ宿泊。「鳥瞰図」のデータ作成作業はホテルで少し進めたが、慣れぬ環境と疲労感で脳があまり働かなかった。
朝6時半に起きて、2時間ほどかけて5.18国立民主墓地へ向かう。招待状がないと中に入場することができなかったが、一般観覧エリアで観ることができた。前日までは前夜祭などでお祭りムードだった光州の街は、その当日少しだけ緊張が走っていた。都会に住んでいると忘れてしまう。そういえばこの国は、市民や学生などが声をあげ続け、他国や自国の抑圧と戦ってきた歴史の上に成り立っているのだ。
帰り道。バスに乗るはずだった停留所が封鎖されていて、しばらくあてもなく歩かなくてはならなかった。案内もどこにもない。大統領も来るので、警備ばかり慎重で市民に対しては冷たい対応だなと思っていたら、お年寄りに声をかけられ「なんか下にあるっぽいよ」と言われ、トボトボついていった。「若い人が一人できたのか」とおっしゃっていたので、(この国の若い人からはそれほど遠い出来事になったと見えるんだ)と感じた。惜しく感じる。だが韓国で生きてきたお年寄りは、本当に世話焼きな人が多いから私はこの人たちのことがとても好きだ。荒っぽい態度で世話を焼いてくれる様には、人間讃歌の四文字が頭に浮かぶほど良い。
予定より8時間はやめてソウルに帰宅。別の時代の時間を歩いてきた気分だった。追悼式典で何度か発されていたような、光州事件での抵抗と死を美談にするような言葉は言いたくないが、語り継ぎ、あの五月の精神をもって生きようとする言葉は深く共感する。光州という街そのものが、五月精神のなかに成立しているような空間だった。
ワーキングホリデーに行く前からこの式典には参加したいと思っていたが、本当にきてよかった。


二〇二四年、五月、二〇日更新



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