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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第三十二回〉

 今日から本格的に「三次角設計図」の計測&テキストデータ作成に取り掛かることになった。

 まだ「鳥瞰図」の確認や微調整、巻頭言1933年分の確認は終わっていないので、色々と同時並行になる。


今日は

10時半〜12時 定本作業日誌執筆(第三十一回分)
12時〜17時半 「三次角設計図」一頁と少し
行き帰りの電車内 トレース作業
※ちなみに『朝鮮と建築』に掲載されていた李箱のテキストはすべて日本語のテキストである

という進捗だった。

 何作か定本作業を進めて、テキストの特徴によって消費される時間とカロリーがわかってきた。



・巻頭言などのテキスト量が少ないものは1日に5作ほど作業可能。
・「異常ナ可逆反應」など一文一文が分断されがちな詩作品は一日に1頁半ほど作業可能。ペースを掴んでミスも微調整もなく上手く進めば一日2頁。
・「鳥瞰図」「三次角設計図」のようなある程度の塊になっているテキストボックスで構成されるテキストは一日に1頁と三分の一ほどかかる。調子が悪ければ1頁も満たず、調子が良ければ一日1.5頁ほど作業可能。
・長編小説はまだ取り組んだことがないので分からない。


 それでいうと今日の「三次角設計図」のテキストデータ作成の作業は良過ぎず悪すぎないペースだったと言える。作業初日にも関わらず、なぜ普通のスピードを出せているかと考えてみたら、原因は三つある。

 一つは、「鳥瞰図」とテキストの構成が似ていること。

 「鳥瞰図」は1頁に3段組のテキストとして構成されており、「三次角設計図」は1頁に4段組のテキストとして構成されている。段数が違うだけの類似性が高い構図だと、適用できる計測方法や手順も多く、迷いが少なかったと思う。
 また、「鳥瞰図」での計測で大きな壁にぶつかったことにより、一度計測方法を立て直して挑んだという経験から、「失敗→対策→実践」までの流れをテキストから離れることなく、目の前でスムーズに組み立てられるようになった。「三次角設計図」でもいくつか(あるべき場所にテキストブロックがない、なぜ?)ということは何回かあったが、大した戸惑いもなく自然に対応できたと思う。


『朝鮮と建築』(朝鮮建築学会編著、1931年)1931年10月号29頁掲載の「三次角設計図」。撮影したものは、国立中央図書館所有のデジタルデータ複写物。

 
二つ目は、日本語レベルの高さの違い。

 李箱の書いたテキストのなかでも、「鳥瞰図」は日本語のレベルがかなり高いと感じた。おそらく当時の日本国民ならば使用頻度の低い熟語や漢字も多く、すると旧字体の確率も高くなる。ついでに言えば、切断できるはずの文章を接続語で繋げたり、指示語の連発が行われることで文脈や混在しているのがみてとれる読みづらさもある。

 旧字体が多いと、現在使用しているフォントが対応しきれない漢字も多くなる。よって漢字を再確認する作業(似たような漢字が三つくらい存在する場合もあるのでよく確かめるのが重要)、トレース作業、貼り付け作業、などなどやることが増えてくる。それと比較して、「三次角設計図」は日本語の文法的な混雑もなく、文脈的な混在もひどくはないのである。


 三つ目、テキスト量の多さ。

 テキストが多いから大変!ということももちろんある。しかしそうではなく、私が感じたのはテキストが多ければ多いほどひらがなが増えてくる。それが大変なのだ。現在使用しているフォントは旧字体への対応力が素晴らしく活版印刷のフォントを元にしているため、類似性を高く保った状態で再現できる長所がある。しかし原典データと比較した時に、漢字はまあ良しとできても、平仮名のうち何種類かは(ん?ちょっと原典と比較してかたちが違いすぎるな)という場合もある。平仮名が増えると、
 
 例えば「だったのか」という文字があれば「だ」「た」だけフォントを変えようかなと思うことも生じてくる。これがほんっと〜〜〜〜〜〜〜〜〜に面倒臭イ、至極面倒臭すっギる作業なのだ。20文字あるうちの10文字だけ別のフォントにするなんて、聞くだけでも面倒なのにやれば数百倍面倒。終わらないし、目もおかしくなってくるし、テキトーに済ませたいけどできるわけもなく徹底的にやるしかない。「三次角設計図」のテキスト量は少ないとは言えないが、平仮名が圧倒的に少ないのは作業のやりやすさの一つだと言える。


 長編小説を定本作業するとなれば、もう死ぬんじゃないかと思う。怖いし本当に笑えない。でもそれ以上考えたら孤独感に踏み潰されてぺしゃんこになる気がするから考えない。意味とか意義とか考えたくない。そういうことヘラヘラ聞いてくる奴がこれから何人も現れるのだろうけど、そいつの頭をPCの角っこでかち割ってしまわないか心配。というか人がやってることに意味をまず聞いてくる人間は大体浅はかで質問も下手、そしてまだテキストを見て自分の経験から読むことしかしていない人間なので、怒っても仕方がない。やめろやめろと思うけど、毎日こんな取り越し苦労をしている。馬鹿馬鹿しすぎる。私が一番愚か。

 テキストは見るもんだよまず、と主張しつつそんなことをしているから文字通り死にかけてる私をみて誰か腹抱えて笑ってほしい。
 元気な人が好きです。
 私が出せない元気をその人が横で放っていてくれたら最高だな〜と思う。元気な私の友達にあいたい。風と草原と空しかない場所で寝転がって、地面に溶けてしまいたい。友達が親や恋人に愛されている話を聞くのが好きなので、遠くでそれを聞きながら土に溶けたい。なんか懐かしい。あああ。ああ。あああー。

 次図書館に行けるのは来週の月曜日か火曜日のどちらか。だいぶ日数が空いてしまうので、持ち帰ってきた作業や、註解をつけてみる作業、巻頭言の確認、「鳥瞰図」の確認、くらいまでは済ませたい。あと、テキストデータ作成が終わったテキストの複写物裏面に「テキスト計測の手順」を書き記しておこうと思う。

 計測手順の記録はイラストレーターで図案付きで作成していたが、続かないまま放置してしまったのでやり方があっていなかったのだろう。なので手書きでやってみることにした。どこまで進むかな?


都会の雪って綺麗じゃないよね


みんな〜、みんな〜、元気〜〜?
生きてるよね〜〜生きてて〜
それでたまに笑って、つらいことがあってもそこそこ健康で、毎日を生活していてほしい〜
わたしもなんとかがんばります〜
あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ひっどい文章だ〜〜情けな〜〜〜い
どうぞ〜



二〇二四年、一月、一二日、執筆、更新。

追記:
 この日誌は、自分の思考や感情を精査せずに書いている。なので、もしこの日誌にたどり着いてしまった人は「こいつ自己憐憫に浸りすぎでしょ」と思うかもしれないし、数年後に私が見返しても同じように感じたりあるいは恥ずかしい過去になっているかもしれない。しかし今執筆している自分は文章で正直になれないなら生活でも正直に生きられないというのが主張で、記憶喪失したいほどつらいことしかなくて、そこで思うこともただつらいだけだとしても、それをひっくるめて書くという腹の括り方をして第一回目を更新したので、何も変える気がありません。誰に何を言われたわけでもなく、これもまた取り越し苦労というやつです。ああ馬鹿馬鹿しい。

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