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去られた者たちの演奏(1)

ーさよならポエジー3rd ALBUM「THREE」Release One-man GIGS
 “reunions”
-OSAKA-振替公演 2021,7.14(wed) 心斎橋BIGCATー 手記

※本手記は、神戸発のバンドさよならポエジー(Vo.Gt. オサキアユ、Dr. ナカシマタクヤ)の大阪ワンマンライブをみて、溢れてやまぬ熱狂を思考した手記です。
長文かつ、まだ纏まっていないため、3、4度に分けて記します。
途中、一つの形を成した曲から歌詞の一部を引用する暴挙がみられること、
ライブ解説またはただの感想ではないことを、先に断っておきます。

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https://tower.jp/item/4281313

「前線に告ぐ」

 たしか、高校2年生くらいの時に買ったアルバム。
さよならポエジーに、どうやって出逢ったかもまるで覚えていないが
歌詞カードをよく持ち歩いていた。
別にお守りではない。でも持って歩いた。
例えば、制服のポケットに忍ばせたり、
無口な生徒をイジって盛り上がる授業中(私もこのうちの一人だ)、
机の下で撫でつけたり、スカートを履くのが嫌だってことを、
制服ポケットにある歌詞カードでなんとか打ち消そうとしたり。
持っていれば、付け焼き刃でも
守備力、攻撃力が上がるような気がした。
それが、「前線に告ぐ」の歌詞カードだった。

このアルバムも、大学生になってからはあまり聴かなくなった。
5年に渡る疎遠があった。
“この曲ヤバイ=直近のライブ行こう”の
方程式が、自分にあったことすら忘れていた。

2021年7月8日深夜

“壇上の絶唱家 いつまで 
この戦場に花 添えてくれる”
 
さよならポエジー「前線に告ぐ」觜崎橋東詰に月

突然だった。
何処に居たかもわからぬ螺子が、
いきなり役割を閉じたかのように、
どくどくと回り始めた。
その一節が深夜突然口に流れ込んで、何度もしつこく歌っていた。
その翌朝、気がつけば
「2021.7.14 ワンマンライブ」の文字を見つけて、飛び込んだ。
コロナ禍でなければ、後悔していたはずの日。
間に合った。よかった。
高校二年生の私、間に合っているぞ。

ここからは光の速さで。
タワレコをいくつか梯子して、
「遅くなる帰還」「THREE」を手にした。
ライブまであと3日しかないことにやや焦りながら、CDを再生した。
すると吹き飛ばされた自分の身体が、遠くの方にみえた。


「前線に告ぐ」は、関西、つまり、
さよならポエジーの活動圏内に連れていかれるような空気があった。
彼らの、私の、地元の風、
よく行く土地の風が吹きすさぶアルバム、
そういう印象だった。

ところが、「遅くなる帰還」

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「THREE」はどうだ。

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https://tower.jp/item/5140746/THREE

自分か誰かもわからぬ人一人の心根に接近している。
見覚えのあるような苦悩を舐めずっている。
友人と軽く苦い握手を交わしている。
次の瞬間には、知らない国の広大な砂漠に独り立ち尽くしている。
住んだこともない街に一部屋借りて暮らしている。

たった3日間。
私はいったいどれほど旅をしただろうか。
心斎橋に向かう京阪電車で思い返していた。
思い返していた?

私が「前線に告ぐ」から離れて生活している間、
彼らは、もう、「曲を聴く行為」を悠々と乗り越え、
聴く者を何処かへ、誰かへ送り出すアルバムを遺していた。


2021.7.14 18時40分頃
さよならポエジーは、ふらりと舞台上へ現れた。
下手から上手へと、舞台上を通り過ぎてしまうかと案じたほど、
なんでもないように、登場した。

ギター、ベース、ドラム、そして声。
これから混ざり合い、一つの曲に成ることを
改めて確かめ合うように鳴らす。
助走は短く、一曲目へ。
暗い場内。どこまでも続く暗闇を描く暖かい光が、
声の方へ差し込む。

Vo.オサキは、文字一つ一つにまで血を行き渡らせるべく歌う。
だからそれらの文字は、漏れず、絶えず、全て聴きとれてしまう。
そして、考えてしまう。
こいつらは一体何を歌っているのか、と。

火が二度と灯らないと知ったら
無力悟って帰ろうか
旅は随分と楽しかったりしたよ
ここを離れ合う為に
吹く風が在ると云う
まだ見えないけど
                         pupa / さよならポエジー

火は灯らないと行き止まりを知り、旅を終える支度をする。
しかし、まだ見えない風を、何かを見ようと、未来を眺めている。
そんな曲から幕をあけた。観客と、さよならポエジーとで、深く暗い道のりに踏み出したのがわかった。

私は、(ワンマンまで出来たらバンドとしてはすごいもんだ)と思っていた。
いや、たしかにすごい、のだと思う。
しかし、その光よりも強く重い引力が足裏を引っ張る。
こうして度々終わりを迎えながら、この日まで音楽をやってきたのだろうか。
この日に辿り着くまでにみてきたかもしれない、彼ら己の底が、私の視界をかすめた気がした。
観客と、さよならポエジーとで、深く暗い道のりに踏み出したのがわかった。

「この国にこんなに居たのか、俺たちのこと好きな奴」
Vo.オサキの嬉しそうな言葉を飲み込むように始まる。
邦学のススメ。

私は、誰にも看取られることなく死んだじいちゃんのこと、
そして自分、この会場にいる全ての人の死に際を想った。
100年後には皆、ほとんどこの世にいない。
皆が眠るように死ねるわけではない。
ときに酷い死に様が待つ人もいるだろう。

死に様がどんなであれ、
故人の生活の痕跡、その傍に「さよならポエジー」と
署名の入ったCDが横たわっているかもしれない。
もし曲が配信されていたのなら、
傷ひとつなく綺麗に、でも誰のものでもないデータとして永久に遺るだろう。
しかし今、さよならポエジーがぽつぽつと放つCDは、
歳月が流れれば劣化し、傷もつく。
プレイヤーにかければ指紋もつく。
永久に遺らないかもしれないし、遺るかもしれない。
どうなるかは、誰も知らない。

時代逆行の思想 或いは未来 先見の瞳の向こうで
どん詰まった 邦楽達の遺骨を拾ってみないかい
                      邦学のススメ / さよならポエジー

別に私は、彼らの曲が後世に遺るか否かに興味はない。

卑屈も理屈も 全ては次章によって いつか
其れ等 あとがきを彩る花に成るのです
                      邦学のススメ / さよならポエジー


ただ 
生み出した曲が、人間同様いずれは生き絶え、
朽ちてゆくもの。
それが後世の何かに花を添えるかもしれない。
そう、嬉しそうに歌っている彼らと
観客の分かち合うこの今は、
絶対に、どんな手を尽くしても遺らない。

愛しい捏造や、忘却を織り交ぜて、
個人の記憶に沈むだけだ。
こんな形でのこしてみても、遺る、とは言えない。
その事実に味を占めて、
また生活を繰り返し、
彼らの歌を聴くことを選択しに、
またライブハウスへ足を運ぶ。

けれど、何度足を運んだとしても彼らはこう思うだろう。
 
「ただ演奏しているだけですから」
「演奏しにきたんですよ」
「結局演奏しかできない」


手記1日目 結

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