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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第五十七回〉
二〇二四年八月二日
鍵を探してスーパーへ。お客様センターのお姉さんに
「き、き、昨日、その、か、鍵、鍵を落としたんです、よっっ、その、えっと」
私は日本語でも韓国語でも、落ち着きがない時、緊張している時はこんな感じの喋り方になってしまう。毎回そうなるわけではないが、今回は吃る要素満載なので喋るのがとにかく大変。
「どこで落とされましたか?」
「えー、えー、えー、あ、そこです!(セルフレジのあたりを指差す)」
「少々お待ちくださいね〜」
パソコンをガチャガチャと触り始めるお姉さん。パソコンで何を管理するんだ…と思いつつ待っていると、お姉さんは席を立って、後ろのロッカーを何やらゴソゴソと探していた。しかしなさそうだ。でも、探すということは「ある」可能性が…?
「昨日、鍵を拾ったとの情報があるんですけど、保管庫の中にはないんですよね。昨日見つけた人に連絡してみます。その鍵の特徴、名前、電話番号を書いてください。連絡がついたら、お客様に電話しますので」
「あ、あ、ああー、はい!えっと、白い犬と鍵が二つあって、スーツケースのと家の鍵で、」
「あ、はい、こちらにお願いしますね〜」
ああっ!!!恥ずかしい!!「書いて」って言ったの聞こえて理解もして、ペンで文字を書くイメージも頭にあったのに!!
ひとまず祈りながら退散することに。
「よ、よろしくお願いします!!(きつく引き攣った笑顔)」で一時帰宅。
帰宅するとキム先生とのzoom会議がある。間に合うように帰って、昨日の準備を確かめて、話すことを再確認する。私は昨日、先生に質問リストを送っておいた。
全集作業をされたとき、資料収集から印刷、出版までの順序を細かく教えてください。
校正作業や注釈を最後にチェックされるとき、誰か一緒に作業されましたか?それとも一人で作業されましたか?
’定本李箱文学全集‘を出版しようというのは先生ご自身の決断でしょうが、出版するための資金などはご自身で集められましたか?
先生は以前、「縦書きが横書きに変わると”意味伝達の問題が発生する”と仰りましたが、具体的にはどのような問題が発生するとお考えですか?どういう意味で”意味伝達”という言葉を使われましたか?
先生は以前、「韓国では横書きが普通。だから読者が李箱のテキストを読もうとする時には横書きがいい。しかし縦書きのテキストを横書きに変更すれば、発生する問題がある。だから悩んでいる」と仰りました。ですが私は、現代の読者にとっての読みやすさと、李箱のテキスト形態をそのまま印刷するという両立はやはり難しいと思います。それでもできることはあります。例を挙げると、書籍序章にて「そのような配慮をしなければならず、どうしようもなく横書きに変更したテキストがある」と提示する、などです。それをなぜされなかったのか、もし理由があればお聞かせ願えますか。
先生は丁寧に答えてくださった。中でも、「やはり私と先生では立場が全く違うんだな」と思ったのは、4と5に関する回答だった。4に関する回答は先生がどんな具体例を出しても理解できなかった。言わんとすることはわかるが、その話を私自身の言葉で説明はできないと思った。だからここにも書けない。先生が持ち出した例は、「原テキスト縦書きのテキストで、図や数字があるとしよう。すると、横書きに変更したとき印刷の都合で図や数字は並びが変わってしまうことがあるでしょう。こういう問題において、意味伝達の差があるという話だよ」ということだった。先生が例に使用された本を私は持っていないので、ここで詳しくは書けないが三枝寿勝の李箱研究の一部を引用された。
確かに、先生の仰る通り、三枝先生の示す通り、縦書きテキストが横書きに編集されるに伴って数字の配列や図の配置は変わっていた。何が起こっているかはわかる。そうなればもう違うテキストとして考えるのが私の立場だ。しかし読者とテキストの間の「意味伝達」にどういうことが生じているかは、正直わからなかったし、ここでいう「意味伝達」が何かはやはりわからなかった。2度ほど同じ質問をしたが、たぶん、例示そのものが理解できていないと捉えた先生は同じ説明を丁寧にしてくださるばかりだった。私もどう聞けばいいのかわからなくなった。私はどうやら「李箱のテキストの意味がわかる」という状態がわからない。だから「意味伝達」という状態もわからない。「意味が理解できる」ということは、語やてにをは の用法や一般的使用例をある程度理解して、一文章として文脈を繋ぐことができる。そういうことだと思っていたが、数字や図において、それは難しい。だから、意味も伝達もないと思っていた。よって先生が仰る「縦書きから横書きに変わることで発生する意味伝達」は、私にとっては「縦だろうが横だろうが、図や数字にどのような意味を感じるかは個人によるもので、むしろ意味はどちらも平等に不明」という捉え方だった。なるほど立場が違うんだなと思いつつ、理解したいとも思う。先生はとにかく私に根気強く説明してくださり、もう今やっている全集作業が終わったら、私も終わりでいいかなと思っていたが、毛利が私のところに来てくれたし、もう少し続けてみようかなと思った、そう言ってくださった。自分の欲求に正直に生きていたら、先生の中でそんなふうに育っていたなんて不思議なことだ。
先生は少し興奮した様子で、「ある人が言ってたんだけどね、研究は地図と一緒なんだって。今日の地図が明日の地図とは同じではない。全て動いていて、それを更新する人がいる。李箱の研究だって、他の研究だってそうだよね。だから続いていくし、変化があるなら研究者は更新しなくてはならない。そうでしょう?」
「そうかもしれませんね」
ふんふん、良い時間だな。と思いながら、私はそういえば地図に関心を持って勉強しようとしていた時期があった。また再開してみようかなと思った。
先生との会議の前にスーパーから連絡があった。
見つかったとのことだった!よかった。スーパーの店員さんは「犬っていうか、うさぎ?であってますか?それと鈴もついてる?」と私に質問した。そうだった。鈴もついていたし、犬犬犬と言っていたキーホルダーはリサとガスパールの「リサ」だった。部屋にたまたま、ヨックモックのシガールがあったので持参して、鍵のお礼に手渡した。「そんな、!いいですー!」と言いながら受け取っていて面白かった。昨日の夜は鍵のことが心配で眠れなかったのに、今は鍵を手にしている。そして家に帰って、鍵をカバンに固くくくりつけた。作業は亀の歩みだが、私の生活地図は痛い失敗により大きく更新された。
二〇二四年八月四日
今日は美術館に行く日。9時半ごろに起きて、40分電車に乗り、なんと30分徒歩で歩かなければならない美術館「国立現代美術館 果川(クァチョン)本館」。35度くらいはあるだろうに、30分歩くか、900円のリフトに乗るかの選択しかない。他にも探せばあるだろうけど、お金を払うよりは、まだ体力もあるから30分歩くことにした。
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目当ては「MMCA寄贈作品展: 1960-70年代の具象絵画」と「MMCA写真所蔵品展: あなたの世界は今何時?」の二つ。韓国では常設展や企画展ふくめ、一つの美術館あたり4つほど展覧会が並行して行われている場合が多く(美術館規模にもよる)、一日で回れると甘くみていると予定が全て狂う。
ソウルで見た展示は人も多く、客層も嫌な感じで、作品も何だかイマイチだなあと思うことばかりだったが、今回のは大当たり。
「MMCA寄贈作品展: 1960-70年代の具象絵画」で展示される絵画は、日本やヨーロッパで美術を学んだ経歴の作家や、韓国国内で独学で描き続けてきた作家など、幅広い経歴と幅広い種類の技法で描かれた絵画が並んだ。”具象”と表されるだけあって、風景画や人物が、静物画が多かったが、中には「これは抽象でしょう!」とツッコミを入れたくなる作品もあったが、抽象画の方が好きな私としては、突然の抽象画も、具象画と抽象画の間のような作品も、どちらも面白い質感だったので角度や距離を変えながら長々と鑑賞した。何作か、水平に展示されていない作品が確実にあった。それだけは何とかしてほしいぜ…と思う。作品の前をうろうろしては、作品ギリギリまで顔を近づける私を、係員さんが観察しているのがわかって少々恥ずかしかった。そして以下の写真は私のお気に入りの作品たち。
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そして、韓国はもしかしたら画家よりも写真家の方が強いかもしれない。そんなことを思うくらい、良い写真揃いだった。映画にしろ、写真にしろ、モノクロはやはりいいものだ。ある時代に生きる人間を遠くから、あるいは真正面から捉えるような写真が多かったように思う。
展示も円形で、鑑賞者の動線が自ずと、時間が巡る、時代が巡る、それらを祝うようにぐるぐる回るような動きになるのが面白いと思った。巡るような円環を感じながらも、パーテーションで区切られているので個々の作品はしっかりとみる余裕もある。一箇所が混み合ったら別のところに移れるような動線の自由さも確保されていて、たいへん良い展示だった。たった2つの展示しか見ていないのに、その時点でソウル現代美術館の500倍は楽しかった。また、この写真展の方に関してはフライヤーもかなりそそられる雰囲気だった。
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そしてお気に入りの写真たち。作家名を全然見ず写真にも収めず、案内図も何もとっていなかったので、作家名がわからない。たいへんひどいことをしたと反省。兎にも角にも作品だけでも記しておこう。
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建築の展示もやっていたけれど、展示室ひとつだけ見て(めっちゃ専門的やし、この建物の良さわからないかもな)と思って、鑑賞をやめた。それと欠伸が止まらないほど眠かった。睡眠時間4時間で30分も歩いたらそりゃそうなる。もう帰る。帰るということは、30分歩かなくてはならない。地獄だ。美術館を出て、歩きか〜〜歩きか〜〜やだな〜〜でもお金勿体無いしな〜〜〜と思っていたら、[美術館観覧のお客様 チケット提示でリフト900円を600円に割引!]の横断幕を発見。お!!!!!!!いやでも600円と、タダで歩くのを比較すると後者だよなあ…と思っていたら、リフトのチケット売り場では動物園のチケットを売っているらしい。韓国の動物園ってどれくらいするんだろう?と思って近づいたら「500円」とあった。 その5分後、私は太ったシマウマの尻を見ながら、リフトのチケットも動物園のチケットも右手に握りしめていた。
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徒歩30分を嫌がっていたのに、猛暑のなか3時間を動物鑑賞に費やした。Tシャツもズボンも汗まみれのべったべた。動物も全然動かない。人もかなり少なかった。30度を超えたら猛暑警報が発令される国だから、そんな日に子供を外で遊ばせる親もいないのかもしれない。やはり鳥をみている時間が一番楽しかった。鳥は人間のことをよく見ているくせに、何も気にしていないふりもできるし、少し観察して危険を感じなければ気にせずぼーっとしている。羽をたたんでいると愛らしいが、一度羽を広げて飛び立つ準備に入った時に貫禄は凄まじい。そして、フォルムが美しい。眠い、疲れた、暑いという感情が、一気に溶かされて見惚れてしまう。振り返った美女の柔らかくて艶々の髪の毛が頬に触れ、やさしい香りが鼻にスッと入ってきた時ってこんな感じだった気がする。鳥にしばらく話しかけたり、首を振ったりしてみると、たまに応えてくれる。鳥たちは私なんかに微塵も興味ない。最高だった。
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それと猿も良かった。長い右手で、遠くの鉄棒をつかみ、次は左手で鉄棒を掴んで、移動する。体は移動の邪魔にならない程度に折りたたんで、ただただ腕の振り子運動に運ばれる物体になっていた。距離感を一切誤らず、移動しまくっている。物言いたげな目でカップルが通るとジロジロ見ていた。でも一度だけ鉄棒を掴み損ねて、地面に転がった。落ちたことにびっくりして、檻の隅に背中を丸めて30秒ほど座り込んでいた。猿も木から落ちるっていうもんなあ。
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私がいつか飼ってみたいと思っている、コガネメキシコインコもいた。首をかしげたり振ったりすると応えてくれる。面白いやつだ。でも少し寂しそうにみえた。私と過ごしたら楽しいのに。
帰りはリフトで帰った。遠くに山もみえ、足元には大きな池が広がっていた。景色が綺麗というより、ただただめっちゃ楽だった。
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一日ご飯を食べなかったので、夜ご飯をたくさん食べて寝た。
明日は図書館に行って、印刷しようと思っていたが無理そうだ。休んで、作業して、映画みて、男子バレーみて、寝る日にしよう。
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二〇二四年八月七日更新