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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第四十九回〉

二〇二四年五月三一日

 キム先生に会いに東大邱へ。東大邱まではSRTに乗って1時間40分ほど。片道3700円と少し。日本の新幹線に比べれば良心的な値段だが、貧乏人にはかなりの痛手。それでも先生に会いに行く必要があるので、何も払っていないような顔で毎月乗車券を買う。痛くない痛くない。
 
 今日は、キム先生註解「定本 李箱文学全集」に掲載される日本語テキスト6作《異常ナ可逆反應》、《破片ノ景色》、《▽ノ景色——》、《ひげ——》、《B O I T E U X・B O I T E U S E》、《空腹——》のテキスト形態批判(テキストデザインに関する批判)、注釈批判、韓国語の翻訳文チェック・批判をこしらえて、先生の勤務する東大邱は慶北大学に降り立った。私は、テキスト形態批判・注釈批判のやり方を誰にも教わっていない。完全独学。先人の書籍を読んで、(あー、こういう文体で、こういう視点から書いていくんだ)などと学んだ。これで良いのかわからないので、とりあえず先生に見ていただき、意見をもらうことにした。もちろん、意見を全て反映して聞き入れるとは限らない。でもこの道の先輩には聞いておいた方が良いというのが私の方針である。
 先生にメールでデータを送信すると、印刷する音が聞こえた。全部で12枚ほど。しばらく先生はそれに目を通していた。何やら書き込みをしているようだった。その12枚の紙をもって私の方にやってきた。

「モウリは、日本でこの全集を出版する予定だよね」

「はい、そうです」

「李箱のテキストには、数字が羅列されたり、図形なのか絵なのかわからないものもあるでしょ?それらは、縦書きにするときと横書きにするときじゃ、配置が変わってしまうことがあるよね。原文では横書きで0123456789って数字が並んでいても、縦書きになればまた配置が変わるでしょ。私たち全集をつくる人は、印刷の都合によって配列が変わってしまうことにも頭を悩ませたりしてるんだけど、モウリはこの問題についてどう思う?」


国立中央図書館所蔵、デジタルデータ『朝鮮と建築』(1931年10月、朝鮮建築学会)より


 ああ、なにか試されているんだなと思った。以前、キム先生に異議申し立てをしてから初めて会うのが今日だったから、キム先生は”テキストのかたち”にこだわり続ける私が、どれくらいこの意味伝達について考えているかを知ろうとしているらしい。なんか先生を圧倒するようなすげーこと言えたらいいけどね!と思いながらこう答えた。

「韓国では現代は横書きが基本じゃないですか。でも日本では縦書きも横書きも日常的に触れているんですよ。なので、先生がお話しされた問題について心配したことがないですね。」
「うん、そうなんだけど、それはわかってるんだけど、どうしてもテキストの配置を変えないといけないことがあるでしょう?その時に、この問題をどう考える?っていう話だよ」

 どうやら先生は「数字や図形」=図形的、絵画的なものだと捉えているらしい。しかし私は、この日誌でも先生にもこの前先生に激昂して送りつけたメールでも主張し続けているように「文字も空白も句読点も数字も図形も、すべてがそのテキストを構成するかたち」なのであり、先生のことばを借りていうならば、テキスト自体が絵画的なのだ。そこに図形だから、数字だからという区別が私に存在していない。

「正直、わからないですね。先生。先生は今、数字と図形の配置が変わることについて質問していらっしゃいますが、私は、このテキスト全体が絵のように考えているんです。なので、”配置をまず変えない”という前提で作業しています。なので正直、先生のおっしゃることに対して私は”わからない”としか言えません。問題が生じればその都度解決していくつもりです。先生方と私がぶつかる問題も違うかもしれない。けど今は、わからないです。そもそも配置を変えるつもりがないのでなんとも言えませんが、私にとって印刷上の都合で配置が複雑に変化してしまうようなことがあれば、それは大きな問題だと言えます。」

 わからない。先生が私から何を聞き出したいのかを、私はずっとわかっていた。数字の配置が変わることによって、意味伝達にどのような差異が生じるか?数字の配置が変わる可能性が眼前にあらわれたとき、編集者や註解者はどのように対応すべきか?を聞きたかったのだろう。
私は、この質問に対しての態度をもっていない。
先生方は「テキストのかたちが変わるときに、どういうことを考えるべきか」という態度を、そして私は「テキストのかたちを変えないために、自分が何をすべきか」という態度をとっている。この前提をなかなか理解してもらえない。何度説明しても、その場で理解してもらえたとしても数日後にはまたその前提を説明しなければいけない機会が訪れる。私はその度に説明する。それは先生が話をちゃんと聞いてくれない、忘れっぽい、などという意味ではなく、”他者の前提を深く理解して、自分と他者の前提は別物であると身体的に考えたふるまいをすること”はものすごく大変なのだ。特に先生方のように長く李箱のテキストに向き合ってきた場合には時間がかかると思う。別に覚悟していたことだ。しかし忍耐力と自己治癒力がものをいう長期戦になっている。
 「わからない」と馬鹿正直に答える直前にいくつかのことを一瞬で考えねばならなかった。
(もしいま、私と先生の前提が違うということを一度差し置いて、先生の質問に真正面から答えることもできる例えばじぶんも先生と同じような前提にたってテキストの配置が変わることに頭を悩ませているという人間になりきってこたえることもできる第二言語でこれを伝えるのはだいぶ苦労するだろうけど言葉をつくせば大丈夫だと思うでもなんかそうすべきじゃない気がする私がそういう演技をしたときに先生の質問には答えられるけどその演技的なふるまいは私の前提に基づいた意見だというふうに飲み込まれるのではないか別にそうなってもまた説明すればいいのだが前提が同じだと勘違いされたまま話が進むときっと今後の私が苦しい多分先生は前提が同じである方が話を進めやすいけどここで立場を一瞬でも譲るようなことをしても私にとって風通しのよくない環境になり得るでも前提の違いをめっちゃ丁寧に説明するも演技的なふるまいで答えてみるもどちらにせよ骨の折れる作業に違いないどうしようどう答えようか)

———「正直、わからないですね」



 説明を丁寧にするよう心がけて話すと、先生も理解した様子だった。話は途切れてしまった。つまらない、何も考えていない、こだわりの強い若造だなと思われただろうか。それならそれで仕方がないけれど、お互いの前提が異なっていると説明することを怠ってしまうとお互いが苦しいにきまっている。違うことを大事にして、行動原理になっているのに気が付かないまま関わっていくと、いつか自分たちが同じ人間で、わかってくれる人間で、批判し合うこともない関係になるのではないかと想像してしまう。それはテキストにとってどうなんだろう。人間同士のやりとりがテキストに影響を及ぼしてしまうなんて、テキストの神様は何ていうだろうか。鼻で笑って私のことを見捨てるんじゃないか。
 先生に(何も考えていない子)と思われるより、テキストの神様に見捨てられる方が怖い。まだ私のことをたまにでいいから気にかけてほしい。だから正直に、言葉に気をつけながら言葉を尽くして説明した。またこうして説明しなければいけない時が来るかもしれない。いやぜったいくる。でもまた説明すればいい。

テキストのかたち

 これを再現するには、作業する人物がテキストに対していかに忠実な作業をするかだと思っていたが、それだけではないのかもしれない。テキストは紙の上に独立した存在でありながら、そこに刻印されるまでに何人もの視線に晒されている。視線は当然に複雑な由来を持つ。だが、編集者がテキストをテキストとして保とうとする時、さまざまな人の視線に触れる空間にありながらも人々の関わりが最終的には凪にならないといけない気がした。いくら喧嘩しても議論しても良い。けれどその結果はすべて、何事もなかったかのように静かで、永遠に何も起きないような平穏さに回帰しなくては、テキスト編集は失敗するように思われた。

チームビルディング、事務仕事、感情、凪、編集、手つき、文字の変動——

神様はぜんぶみている。
ああ、恐い。


「で、先生。注釈批判と形態批判について何か思うこととか、もっとこうした方がいいということがあれば言ってください。今日が無理ならメールでもいいので指摘してください」

「いいんじゃないかな。もうちょっと文章を注釈的に整えて、継続しよう」


二〇二四年六月一日、更新



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