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定本作業日誌 —『定本版 李箱全集』のために—〈第三十回〉

 昨日と今日はバイトが10時〜16時まであったので、図書館には行けていない。しかし、図書館に行けない日のために作業を準備しているので家に帰ってもやる作業は山程ある。


 昨日今日で終わった作業は

異常ナ可逆反應
1932年6月巻頭言
1932年7月巻頭言
1932年8月巻頭言
1932年9月巻頭言
1932年10月巻頭言
1932年11月巻頭言
1932年12月巻頭言
→以上のテキストの誤字脱字、フォント調整、かたちの微調整

 確認した際、誤字脱字はなかったが、フォント調整やかたちの調整においてはそれなりの箇所を改善した。
 実際に作成したデータを用いて、かたちの調整とは具体的に記してみよう。


筆者作成のテキストデータ(『朝鮮と建築』1932年11月号巻頭言より)


「おい 誰か灯をつけて呉れよ」(呉は旧字体)という文字列をテキストボックスにただ入力してから、かたちの微調整を行なった。微調整は、私自身の眼で、原典デジタルデータや影印版と定本テキストデータを比較しながら最低でも7~8箇所の変更を加えた。例えば、「つけて」はキーボードから「TUKETE」で一つのテキストボックスに入力可能だが、原典や影印版、デジタルデータを比較したところ「つけて」のうち「け」だけがやや下に下がっている。その再現をするために「つ」「け」「て」と三つのテキストボックスに切り分けて位置を調整した。結果的に「け」だけを下に下げるのでは不十分で、「つ」も上にあげる必要があった。文字に穴が開くほど観察してやっと作業に踏み切れる。
 このように、微調整の微調整も多く、全体のバランスを見ながら行なった変更も数多いので正確には数え切れないのだ。
 余談だが、イラストレーターの文字や図形を動かす際に、上下左右のキーボードで動かすとあまりに大きな移動をしてしまうので使う機会があまりない。基本自分の手でマウスパッドから動かす”手作業”に近い状態でテキストデータを作成する。

 計測数値はテキストデータで重要な要素の一つだが、最後の最後は自分の眼でテキストにひろがるリズムを摘みあげていくしかない。それぞれのテキストデータ確認作業自体はもう2、3回目だが毎回修正をしている。一人の人間の眼でみつけられるミスや違和感は限られているため、何度やっても限界があり、何度やっても少しずつ改善されてしまうのだ。よって今私ができる、テキストデータ上での確認は全力を尽くしたことになる。なので次は印刷して、おかしなところがあれば修正する段階に移ろうと思う。進むための諦めだ。


テキストを文字として読む
テキストをかたちとして読む


 この二段階の読みを私たちは常々、無意識下で行なっている。いや、行うようになった。つまり、無意識下ではない時代もあったということだ。それはいつかというと、その文字に初めて出会ったときだ。

 小学生一年生で、初めて習った漢字や熟語を国語の練習ノートに書き写すとき、その線の構成からなる文字をよく見て、再現するように何度も書き写しながら、付随する意味やイメージを脳内で反芻してきたはずだ。そうした行為の反復と、行為の反復を経て習得され、文字のかたちとイメージが自然に連携されるようになったとき、われわれは「読める」と感じる。

 私が行なっている行為はおそらく、文字とイメージの連携を断絶しながら再縫製するという行為だと思う。その連携の断絶は、一文字一文字の徹底的な観察からはじまり、作業者を幼児期へ、読めなさへと向かわせる。それにしても、過去に定本作業を経験した人々は何を思っていたのだろうか。読めていたテキストの文字さえまともに読めなくなっていく自分に怯えたりしたのだろうか。あるいは、原本の存在不可能性に止まらず、原本不可能性の後追いし続けるしかない事実にも疲弊していたのだろうか。

 李箱文学研究会の論文発表会である教授が「かたちかあ、でも僕は文章の内容だけわかればいいから」と微笑んでいたが、その文章を構成する文字、文字のフォントや位置によって第一印象の段階でテキストから想起されるイメージの様子はおおきく異なる。いや、内容って、何?内容って、何処からくるの?何が内容をつくるの?内容だけを抜き取って理解できるかのような表現だが、テキストから何を内容とするかは人によって異なる。人によって異なるということは、計測結果や定規のような絶対的な固定ができないものではないのか。すると、「つける」の文字配置の歪みから想起されるイメージは内容に関係していないと、どうして言えるのだろうか。なぜ?なぜだろうか。

あー・・
あーー・・・?

文字とイメージの関連運動を無視した印刷物を読んでいるからか?
一種類のフォントや文字サイズで統一されたテキストを読んでいるから、文字のかたちが内容に関わっていると気が付きにくいのか。ならば、私とその教授は価値観が違うのではなく、興味関心が違うのでもなく、読んでいる”テキストの棲む世界”が違ったのだ。

 

〈文字とイメージの連携を断絶しながら再縫製するという行為〉
って、論文でも似たようなこと書いたな。なんだっけ。なんだっけな。
私はいったい何処まで連れて行かれるんだ。また、還るかもしれないってことかな。
 大荒れの夜の海に漕ぎでてからしばらく経った。前方に見覚えのある灯台が見えたけど、目を擦ってみたら眼球に張り付いた目やにでした。くらいの幻なのか。


二〇二四年、一月、六日、執筆、更新。

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