2023年2月19日手記No.5
エゴン・シーレ展に行ったが全くと言って良いほど心が動かなかった。
でも館内には、あふれんばかりの人人人、皆寄って集って絵を覗き込んでおり、みるのにも場所取りせねばならないほど混んでいる作品もあった。その人たちを非難するような気持ちではなく、純粋に「この作品のなにがいいんですか?」と質問してみたいと何度思ったか知らない。私はこんなに鑑賞を楽しめなかったっけ、と暗い展示室にも押されて、だんだん落胆していった。
19日は、「東京展覧会巡行」と称して長野からの日帰り上京を計画した。
エゴン・シーレ展(東京都現代美術館)、East East Tokyo(科学技術館)、ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ『柔らかな舞台』(東京都現代美術館)、石川直樹個展(GYRE GALLERY)、計4カ所の展示をまわった。
ハードスケジュールを立てたため、一つの電車乗り継ぎが命取りになる。よって今回は、都民の友達を呼び寄せてガイドになってもらう。迷ってしまうときの、自分がこの世に一人きりかのような寂寞とした感じをを味わわなくて良いというわけだ。有難いので、長野土産をたんまりと渡す。
ただ、このシーレ展で私は大いに失望することになる。失望の矛先はシーレか私かわからないが、とにかく、鑑賞を頑張ろうと思って何度腹をくくり直しても、一度天井を見上げて思考を改めてみても立ち止まらないといけないような作品はほとんどない。とにかくどの作品にも惹かれないのだ。走って作品を見てまわれと上官命令を受けても、「ハイ!」と返事をして平然と走っただろうと思う。
私は大学時代なら、目の前に100点の作品があれば内20点くらいの割合で、その作品に何かしら心を揺さぶられ、必死になって心の揺らぎを言語化しにかかり、何十分も作品の前に立ってしまったものだった。だから、走ってみるなどあり得ない。あり得ないはずだったのだ。
けれどエゴン・シーレ展は俗的にいって、つまらなかった。作品をみてもみてもみても、国立国際美術館でみたアンゼルム・キーファー《星空》や、河原温《Today 》シリーズなんかは、観たまましばらく動けないほどの鑑賞体験を味わった。そんなこと、ざらにあった。
ずんずんと歩みを進めながら、私は私自身に相当失望していた。絵画をみても、なにも感じられないつまらない人間になってしまったことを、もしや展示作品のせいにしているのではないか。もしそうなら、鑑賞者として最低極まりない思考だ、どうしよう。自分がいやに変わってしまったのか。
私は休日を削って、2200円も払って、シーレやその他作家の作品をみながら自分内省ばかり繰り返していた。でも内省しないとやっていられなかった。作品を鑑賞することは、心を揺さぶれるか否か、そしてそれが良いと思えるかではないと思う。作品鑑賞を通して、まずひたすらにみる。くまなくみる。そのあと、作品の諸要素によって自分のなかに何らかの変容が起きるか起きないかだと思っている。その変容に深度の違いはあれど、すこしでも起こったならすこしだけ鑑賞できていたのかもしれない、と私は解釈して、作品の前を立ち去った。
ちょうど最近、平倉圭さんがTwitterでこんなツイートをしていた。
このツイートをなんとなく覚えていたからだろうか、あるいは、私の魂が鈍ったから作品を味わえなくなったと落ち込んだからか、わからない。だが、100のうち20くらいは作品に心揺さぶられて立ち止まっていた頃の鑑賞と、現在の自分の鑑賞において、どのような差異があり、そこでは何が起こっているか。なぜ、作品を良いと思えないのか、考えてみるべきではないかと考えた。私の直感によれば、それは己が「芸術作品を何として枠付けし、何を否定し、何を肯定しているか」という芸術認識の問題に深くでつながっているらしい。
ここから文章が始まりそうだが、疲れたので終わり。
今日は、上司が言った嫌な言葉を思い出して、韓国語の模擬テストの結果も良くなかった、酒もこぼした、東京にまた遊びに行くが金がかかって仕方ない、明日は仕事かと憂いてなんだか疲れた。つづきはまた明日にしよう。明後日かもしれない。